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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(4)=全員起立の裡に国旗は掲げられ=夜空に高く響く君が代

パウリスタ新聞1950年4月1日の水泳団一行来伯特集にある「飛魚歌会」

パウリスタ新聞1950年4月1日の水泳団一行来伯特集にある「飛魚歌会」

 敗戦国だった日本は1948年開催のロンドン五輪には参加ができなかった。しかし1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められるやいなや、古橋や橋爪ら6選手は、ロサンゼルスで8月にあった全米選手権に招待参加し、400メートル自由形、800メートル自由形、1500メートル自由形で「世界新記録」を樹立した。
 サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日)締結前だったため、日本国内に米ドルがなく、日本水連幹部や在米日系人からの寄付でようやく実現できた大記録だった。当時、現地の新聞が「フジヤマの飛魚」と呼び讃えたことから、日本国民を大いに勇気づけた。
 その翌年1950年にブラジルのスポーツ省の招待で南米遠征。これを機に、全ブラジル水泳選手権大会がサンパウロ市パカエンブー・プールで3月22日から4日間開催され、古橋選手は400メートル自由形で南米新記録を樹立するなど偉業を残した。この時、特別な計らいで国交断絶以来8年ぶりに日の丸が公の場所にはためき、辛い戦中を送った日本移民の心を大いに慰め、力づけた。
 実際にパカエンブーのプールに大会を見に行った梅崎嘉明さん(93、奈良県)は、「大会の前には、何を大騒ぎしているんだとけっこう冷めた感じの人もいたし、私もそうだった。でも実際に日本人選手が活躍するのを見ているうちに、いつの間にか一緒に大騒ぎして、結局はすごく感激した」と思い出す。
 さらに感慨深そうに、「日章旗が掲揚されたとき、すぐ隣に並んでいた岩波菊治さんが涙を流していた」と付け加えた。落ち着いたインテリの印象が強い岩波だが、さすがにこの時ばかりは、感情の高ぶりをこらえ切れなかったようだ。
 「あのときは勝ち組も負け組もなく、皆がプールに集まった。ブラジルの水泳大会だから普通なら大半はブラジル人の観客。ところが、その大会だけは日本人が半分を占めた。そんな場で、古橋らはブラジル人選手に十何メートルもの差をつけて勝利を飾った。その姿をみて一緒に溜飲を下げ、日の丸掲揚を見て、みんなで涙を流した。今思えば本当に特別な日でした」としみじみ振り返った。
 梅崎さんは当時27歳で、短歌結社・椰子樹の一番の若手だった。先輩諸氏と一緒に見に行き、興奮冷めやらぬ前に同人の家に寄り、「飛魚歌会」を開いた。その作品がパウリスタ新聞1950年4月1日付に掲載されている。
 梅崎さんの言うとおり、ブラジル短歌界の指導者・岩波菊治は《メーンマストに高くひるがえる日章旗仰げばしばし沸き来る涙》との熱い想いが込められた歌を発表している。
 その他、《全員起立の裡に国旗は掲げられ夜空に高く響く君が代》(大原友重)、《スタートに立つ古橋の不動体ロダンの彫刻のごと眼を見張らしむ》(吉本靑夢)などと10首あるうちの大半は祖国や日本選手の勇姿を讃えている。
 でも一人だけ岡本を詠んだ、目の付け所が違う歌人がいた。《二百米決勝のゴール迫るときオカモトを呼ぶ声湧き高まれり》(武本由夫)などと生々しく雰囲気を伝える。
 梅崎さんは「日本から有名選手が来るなんて、まったくなかった時代。とにかく飛魚、飛魚と大騒ぎで、まだ誰も岡本に注目していなかった。武本さんはコロニア文芸界の第一人者だった人で、僕ら準二世にも目をかけてくれた。若い世代に期待を寄せる人だったから、岡本のことを詠んだのかもしれません」と66年前のことを鮮明に記憶している。(つづく、深沢正雪記者)

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