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めざせ東京五輪2020!=弟子に託すメダルの夢=浜松育ちの柔道家ユリさん=サンパウロ州選抜を熱血指導中

選手の指導にも自ずと熱が入る

選手の指導にも自ずと熱が入る

 思いは早くも2020年の東京五輪。選手時代の熱い夢を弟子に託し、一人の女性柔道家が日々、指導にまい進している。浜松で青春時代を過ごしたダニエリ・ユリ・バルボザさん(32)。漢字名は由利、母の姓がナカザワという混血三世が、北京五輪で届かなかったメダルという夢を後進に託し、23歳以下のサンパウロ州選抜選手を指導している。

柔道人生まだ夢の途中―。教え子のメダル獲得を信じて練習を見つめるユリさん

柔道人生まだ夢の途中―。教え子のメダル獲得を信じて練習を見つめるユリさん

 平日の毎昼夜、サンパウロ市イビラプエラ道場が活気にあふれる。州内から選抜された23歳以下の柔道家50人以上が、隣接する寮で生活しながら稽古に明け暮れている。サンパウロ州柔道連盟や州政府が行なう強化事業の一環だ。
 年末に差し掛かる12月上旬、主だった大会を終えた選手らはドッジボールで体を温め、リラックスした雰囲気で練習を始めた。彼らの指導に当たるのは全部で4人。ユリさんは4年前から指導陣に加わり水、金曜を担当している。
 84年1月、サンパウロ州レジストロに生まれ、非日系の柔道選手だった父エジソン・バルボザさんの影響で幼少期に競技を始めた。「始め道場に連れてかれて」と取り組んだ柔道だったが、7歳から4年連続で州大会の頂点に立つなど輝かしいキャリアをスタートさせる。
 訪日したのは11歳の頃。当時は90年代半ばとあって、デカセギブームの真っ只中だった。多分にもれずバルボザ家も仕事を求め浜松へ。日本では小学6年生にあたり、地元の小学校に編入した。入学初日は「怖がってたんじゃないかな」と思い返す。
 日語能力が皆無だったため、外国から始めて日本を訪れた少女にとっては無理もない。ただ現地には伯系コミュニティーもあり、「他の地域に比べれば恵まれた環境だった」と笑ってみせた。

思い出一杯の日本生活

 「つらいこともあったけど」というネガティブな思い出は、「ブラジルでは満点を取る生徒だったのに日本に行ったら0点を連発。それが悔しくて日本語を勉強した」というくらい。「部活動は大変だったけど楽しかった。皆で一緒になって頑張って。あとは下校の寄り道とかも」。明るい性格も手伝って、充実した学校生活を送っていたようだ。
 日語は学校で聞く、話すほか読み書きを徹底的に学んだ。日系人が開講する週1回の日語教室にも通った。そうして4年後には、高校受験をするまでの語学力を身につけた。「あまり頭の良い高校ではないのよ」と笑って謙遜するが、努力したのは武道だけではない。
 本業の柔道では静岡県代表として国体に出場。「第2の祖国」でも活躍を見せた。自然と五輪への意識も高まりブラジル帰国を決断した。資金を貯めるため、高校卒業後の1年間は一デカセギとして労働も経験。それも「五輪に出るため」と、強い思いを抱いてのことだった。

初の汎米大会と五輪

 家族を日本に残し19歳で一人帰国を果たす。「20歳以下のジュニア大会で優勝すれば代表選考にも有利なる」と考えて、成人前に戻ることを決意した。父の知人を伝って、サンパウロ市ジャバクアラ区にある小川武道館の寮で新生活をスタートさせた。大会結果は見事全国優勝。日本での経験を存分に発揮した。連盟の支援を受けられる強化指定選手にも加わり、04年アテネ五輪を目指す権利を得たが願いは叶わなかった。
 その後も体育大学に通学しながら、近郊サンカエターノに拠点を移し稽古を積む。同じ63キロ級には石井バニアさんがいたものの、11歳上の彼女らを負かし07年に初めて代表の座を勝ち取った。
 そして臨んだリオでのパンアメリカン競技大会(汎米大会)。国際大会は幾度も経験していたものの、「国を代表する大会だと思うと普段と違った。国旗は重かった」という。
 なんとか決勝まで進出し、キューバのドリュリス・ゴンサレスに敗れたものの準優勝。「強すぎる相手だった」と彼女が評するゴンサレスは、日本で言う谷亮子並の絶対女王だった。五輪金を始め世界大会での獲得メダル数11を数えた。強敵には屈したが達成感をにじませる。夢の舞台、オリンピックへ着実に近づいた実感を得たからだった。
 その実績を引っさげ、翌年ついに五輪へ挑むことになった。電話で伝えられた代表決定の朗報に「口をあんぐりさせてポカンとしちゃった」。喜びや驚きを通り越して、念願の五輪出場に言葉が見つからなかった。ようやくたどり着いた夢の舞台では、「日本の友達もたくさん応援してくれてたし、緊張しすぎてぶるぶる震えた。足の感覚もなかった」と、かつてない重圧が彼女を襲ったようだ。
 極限の緊張感で迎えた1回戦、相手は韓国人だった。技ありを奪取し「初戦突破がちらついた」という試合中盤、果敢に攻める相手に一本を獲られ逆転で敗れた。仕切り直しで立ち位置に戻ったあと、振り返ると相手が目の前に迫っていた。組み手で不利になり、一瞬の気の緩みで敗北した。子どもの頃から一途に追い求めた大会は、たった5分足らずであっけなく幕を閉じた。

引退、そして指導者へ

有望な若手選手の指導に日々励んでいる

有望な若手選手の指導に日々励んでいる

 大会後、彼女は柔道に戻れないほどに落ち込んだという。「とにかくがっくりした。また振り出しに戻ったような気持ちになった」。それでも夢のメダルに向け顔を上げることにした。ただ12年ロンドン大会への道のりは険しく、次世代育成を優先するためにと強化指定選手からも漏れてしまった。貯金を切り崩し自費で国際大会へ臨むなどしたが、11年に引退した。
 「やっぱり五輪メダルが欲しかった」とこぼすように、現役時代の悔しさは今もある。そんな思いを胸に秘めつつ、練習を見守るまなざしには未来への期待がうかがえた。4年前から23歳以下州選抜の指導者に指名され、同じく五輪出場を志す若者に自身の夢を重ねている。
 指導者に転身してからは、日本でもまれた経験を生かしている。彼女の稽古風景は学校の部活動さながらだ。「自分を追い込まないと強くなれない」。五輪経験者だからこそ、説得力がある。
 そうした指導、強化の場を求め州外からも選手がやってくる。一部にはエスピリトサント州やリオ・グランデ・ド・スル州出身者もいるようだ。州外でこうした強化体制はない。そうすると、自ずとサンパウロ州出身者が代表となる事例が多くなる。リオ五輪では14選手の内、ちょうど半数の7人がサンパウロ出身だった。
 中でも日系のキタダイ・フェリペは、まさにここで技を磨いた。ロンドン五輪銅メダリストの彼を輩出したことからすれば、東京大会でもメダルを持ち帰る選手がいてもおかしくない。

果たせぬ夢弟子たちに

 リオ五輪をテレビ観戦したユリさんは、日本の強さが目立った大会だったと振り返った。「日本人選手は強いし、しかも若い。それでも次の世代が台頭してくる。2大会連続の出場者なんて、そんな多くないでしょ。高校生が代表選手を打ち負かすこともあるんだから。でもブラジルにはそれがない」。世代交代や若手の台頭に物足りなさを感じているようだ。その言葉の裏には、自分の教え子が今の代表を打ち負かしてほしい、そんな願いがあるようにも感じる。
 目の前には20歳前後の有望株がゴロゴロしている。男女合わせ5、6人は東京五輪の候補に名乗りを上げるだろうと教えてくれた。
「もしこの中からメダリストが生まれたら、私も少しはメダリストの気分になれるんじゃないかな」。青春時代を過ごした日本開催だからこそ余計に意欲も高まる。
「自分の国はブラジルだけど、日本での五輪は他とちょっと違う。絶対応援に行きますよ」と話すのは、期待値が高い証拠だ。
 取材の最後に、「まだ自分の夢は生きていると思う」と、ポツリ本音がこぼれた。五輪でのメダルこそが彼女が追い求める最大の目標だ。自身の果たせなかった夢を教え子に託し、3年後の7月へ思いをぶつける。