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ブラジルに蝉しぐれはあるのか

ブラジルにもいるセミ(Cigarra、写真提供=Andressa Maria Martins Lopez、撮影場所=Alpes das Águas, São Pedro – SP)

ブラジルにもいるセミ(Cigarra、写真提供=Andressa Maria Martins Lopez、撮影場所=Alpes das Águas, São Pedro – SP)

 「セミはブラジルにいるのか」―そんな議論が日系社会の俳句界には昔からある。要は「蝉しぐれ」という季語が使えるかどうかという話だ。今年から加わった研修記者がUSPピラシカーバ農大に昨年留学し、昆虫学を勉強していたというので、この問題を尋ねた。すると「いますよ。捕まえて標本を作りましたから」とあっさり答えた▼恥ずかしい話だが、コラム子も渡伯当初10年余り「ブラジルにセミはいない」と断言していた。取材であちこちに行くが、サンパウロ市内では鳴き声を聞いたことがなかったからだ。だから夏に帰国した際に聞いた蝉しぐれには、なんともいえない郷愁を感じた。10数年ぶりに聞いて子供の頃のことを思い出し、「ああ帰って来たな」という感覚をしみじみと味わった▼これを書きながら唐突に思い出したが、たしか数年前にノロエステ線のどこかで蝉しぐれを聞いたことがあった。最初はその音が何だか分からず、「遠く何かが鳴いているな」とぐらいにしか思わず、しばらくたってから「あれ、そういえば、これはセミの声じゃないか」と急に腑に落ちた。頭から「セミはいない」と思い込んでいたために、耳に入っても「聞こえない」状態になっていた。その時に地元の人に「これはセミの鳴き声ですか」と確認したら、「もちろん、セミですよ」と怪訝な顔をされた▼そこで思い出したのは、東京医科歯科大学の角田忠信教授が提唱する《虫の鳴き声を「声」として認識できるのは、世界中で日本人とポリネシア人だけ》という説だ。日本人の脳が他の民族の脳と違う点を、生理学的に追求してきた角田教授は、民族や文化の違いによって右脳と左脳の役割が違うことに気付いた▼通常、右脳は「音楽脳」といわれ、音楽や機械音や雑音を処理する。左脳は「言語脳」といわれ、会話や論理的な処理を受け持つ。角田教授がすごいのは、「虫が出す音」をどちらの脳で聞くかを実験したことだ。西洋人は虫の音を音楽脳で処理するのに対し、日本人は言語脳で理解しているのだという。西洋人は虫の音を「雑音」として聞き流し、日本人は「虫の声」として会話と同様に意味を読み取ろうとしているらしい。思えば日本語には「ごろごろ」「げんなり」などの擬音語、擬態語がたくさん使われて会話を補強する役割をしている▼逆にブラジル人は、日本人より動物の鳴き声に関する感性が鋭い気がする。鳴き声をポ語として聞き取って名前にしている鳥が「Bem-te-vi」(あなたを見た)などいくつかいる▼昨年亡くなった人文研の宮尾進元所長も面白いことを言っていた。「ブラジルの団体に電話したとき、電話番の女性に『お名前は?』って聞かれて、『私はミヤオです』と答えた。すると相手は大笑いして『冗談は辞めてください!』といわれた。どうやら冗談で猫の鳴き声を出していると思ったようだ」という笑い話だった。「宮尾」が「ミャーオ」に聞こえるというのは、ブラジル人が動物の鳴き声に敏感な証拠の一つかもと思い直した▼角田研究がすごいのは、《日本人でも外国語を母国語として育てられると西洋型となり、外国人でも日本語を母国語として育つと日本人型になってしまう》という人格形成まで言及している点だ。二世、三世と世代を経るほど「虫の声」が、ただの「雑音」と化して聞こえなくなるワケだ▼たとえ一世でも子供移民などブラジルで長いこと生活しているうちに、脳みその使い方がどこか現地化して、耳には蝉しぐれが入ってきているのに「聞こえなくなっている」部分があり、「セミはいない」との説が出てきていたのかと思い至った。皆さんはどう思いますか? (深)

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