ホーム | 文芸 | 連載小説 | 道のない道=村上尚子 | 道のない道=村上尚子=(72)

道のない道=村上尚子=(72)

 この日、父は車庫の屋根に登っていた。その近くに居た私のすぐ側で「ドサッ!」という音と共に、父が落ちてきた。車庫といっても二メートル以上の高さである。とっさに見上げると、屋根が破れて、ぽっかり穴が開いている。私は地面に倒れた父に、飛びかかって抱いた。
「何ちいうことをしたかね! ばかが!」
 動揺している私が、あの怖い父を叱りつけている!
「うぉーん! うぉーん!」
 私は父を抱きしめて泣いたーやがて父は起き上がった。
「どっこも怪我はしとらんかね?」
「うん……」
 父は照れくさそうに、まるで幼児が母親に叱られたような姿で、自分の室へ戻っていった。父に対して、私自身、こんな感情があったとは、不思議なことであった……後で壊れた車庫の事件を琴子に話すと「あの時、私車の中にいたんよ。もうちょっとで、車を出そうとした時、じいちゃんが落ちてきた……」間一髪であった。
 父は一旦、車に体が落ちてから、地面へと落ちたのだった。動転していた私は、娘のことは気付かなかった。 
 
    父  の  病   気

 父と暮らし始めて、六年の歳月が流れた。
「のどが痛む……」と父が言う。
 がまん出来ないらしいので、病院で診てもらうと、医者にいきなり末期の癌だと言われた。喧嘩していた弟の卓二が、ちゃんと父に病気のための保険をかけてくれていた。パウリスタ通りの裏にある「オズワルド・クルース」という病院へ入院した。すぐに喉の手術をして、もう口から食事をしなくていいように、腹に穴を開けた。そこから流動食を流し込むために、細い管を突っ込んである。これは父が死ぬまでその状態で、寝起きした。

 時々、医師が家に帰してはくれるが、又すぐ入院となる。父は喉を手術したため、声は出ない。彼が何か話したい時は、筆談となった。そのうち彼は体の不調を訴えるようになり、特に足をマッサージした。又、父は流動食なので、自宅にいる時は便がカチカチになり、排便が出来なくなって来たのである。私はとっさに思いついて、石鹸水を注射器で、下から入れた。思った通り、灰色のポロポロしたのが出た。人工食なので匂いもない。とはいっても、あれほど威張りちらしていた父にとって、これがどんなに惨めなことか想像が出来る。
「お父さんのは、ひとつも気持ち悪くないばい」
 と私は言って聞かせた。父は穏やかな顔のなかにも、やはり複雑な表情が混じっていた。彼には今、自分に起こっている、この症状で何の病気なのか、絶対に尋ねようとはしない。これは最後までであった。きっと分かっていたのだ…… 私は何かと忙しくなって来た。父はまだ、家の中は歩いて回っている。私に手まねで言っている。
「碁を打とう」「あとで……」
 すると父は、それから三日間ふくれた。私はやっと時間を作って、
「お父さん、碁を打とう」
 と呼びかけても、そっぽを向いている。
「お父さん! どうして打たんと?」
「打ちたくないなら、打ってくれんでもいい!」
 と紙に書いた。
「ごめん! 打ちたくないんじゃないとよ。忙しかったき……」
 と彼の機嫌をとって、碁の相手をした。まだこの頃の父は、碁を打つ元気が残っていた。
 私はその彼の姿を眺めながら、遠い昔を思い出していた……。

image_print

こちらの記事もどうぞ

  • 道のない道=村上尚子=(81)2017年2月10日 道のない道=村上尚子=(81)  やがて、二人で外へ買い物に出た。道を歩きながら、ひろ子がしみじみとした声で、自分へとも私へともつかず言っている。 「不思議ねえ……今なぜか昔ママイに色々してもらったことを、思い出しているよ。今まで何も思い出したことがなかったのに。例えば、六歳くらいの頃かしら、ママイが私に服 […]
  • 道のない道=村上尚子=(2)2017年2月7日 道のない道=村上尚子=(2)  又、女性の中には、精神的に参っている人が多く、私に馴染んでくると、身の上話をしたい女性が増えた。しかし、治療中に喋られると、私が集中出来なくて大変困る。適当に聞いとけばよかろうと思うだろうが、話している方は、布団を叩いて泣きながら話しているのだ。  これほど、のたうち回って […]
  • 道のない道=村上尚子=(79)2017年2月8日 道のない道=村上尚子=(79)  初めは、彼にも私のポルトガル語が分からなかったのだと思える。しかし、段々私式のポルトガル語が理解出来るようになったのであろう。人間、どんな難しい問題でも、訓練と慣れとで、解決して行くものである。このへんな才能を持った生徒が、私が一言喋るその度に、ポルトガル語で皆に通訳している […]
  • 道のない道=村上尚子=(75)2017年2月2日 道のない道=村上尚子=(75)  私はそのとき、何か一瞬にして肩から覆い被さったものが取れた。父は、空の便器を引き寄せ、その中へ手を入れては、何かをつまみ出して、口に入れている……父の頭では、何か食べ物が入っているらしい。これを見て、私はいいことを思いついた。 「お父さん! ぼたもちばい!」  と、さも牡 […]
  • 道のない道=村上尚子=(36)2017年2月3日 道のない道=村上尚子=(36)  そうこうする内、人に貸していたアパートが空いたので、そこへ移った。色々、身辺の整理も終わった頃、数冊の私の日記帳が出て来た。特に、ここ一年間の日記は、癌病の父の介護、その闘いの日々であった。分刻みの看病のことが、克明に書かれていて、何か見ているとその日記帳そのものが、生きもの […]