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自分史 戦争と移民=高良忠清=(11)

お酒

 厳しい物資不足が続いた終戦直後には、住民が命をつなぐほどの食料はアメリカ政府によって支給されたが、他には何も無かった。
 島のお酒好きな大人たちは、こんな時チョットでもあればどんな苦労も忘れられるのにと、お酒不足を寂しがった。
 そこで大人たちは日本軍が畠のあちこちに残したアルコールやひまし油の入ったドラム缶を見つけ出しては、メチルアルコールを水で薄めて喜んで酒代わりに飲んだ。それで命をなくしたり盲目になったりした人が沢山いた。
 ひまし油を食料油代わりにして揚げ物を食べては激しい下痢を繰り返す住民もいた。ひまし油にミカンの木の葉を入れれば毒を返すと言って使った人もいたらしい。

ムラオクシ

 石川でどれくらいの間暮らしたかは余り確かでないが、しばらくして小禄村が解禁され、私達は自分の部落に帰れることになった。
 小禄村は十二ヶ字(小禄、田原、金城、宇栄原、高良、当間、具志、鐘水、赤峯、安峯、宮城、大峯)だが、解禁となった字は高良と宇栄原だったので、この二ヶ字に十二ヶ字の住民が収容された。
 家はアメリカ軍が建てた家もあれば、他にも野戦用テントを張って四家族がみんなで仲良く助け合いながらしばらくは暮らした。
 字小禄と田原が解禁されても、住める家は一軒も残っていない。村を建て直すため、老いも若きも出動する村起こし(ムラオクシ)が始まった。
 これは昔からの習慣で、村の非常時には五、六人ずつ組みを作って、ヒーマール(お互いに助け合う)精神で村の再建に励んだ。
 当時はお金を儲けて個々の家計を何とかするより、村を建て直す精神が勝っていた。その村は水の少ない処で、飲み水は約一キロメートル離れた県道の向こうに取りに行かなければなりませんでした。
 ある日、私が一緒に水汲みに行った女の子と帰りの小道に入る前の県道のわきで座って一休みしていると、ごみ捨てに行ったアメリカ軍のトラックがやって来ました。すると私たちをめがけてマクラパンを三つ投げた。私はサッと走ってそれを拾った。すると続けてもう三つはいった箱を投げた。それは女の子が拾った。その子の分が無かったら一緒に分けるつもりだったが丁度良かった。二人とも家にもって帰り、皆にご馳走できた。
 ある人は、戦争で焼け残ったドラム缶を二つに切ってかぶせて屋根にした掘っ立て小屋を造って住んでいたが、住民を支えるため食料と木材が少しずつ琉球政府から支給されるようになった。
 一九四五年から一九七二年までアメリカ政府による琉球政府の行政管理は続いたが、沖縄県民が自給自足で生活できるようになった頃には配給制度も廃止された。
 村の生活がだんだん復興されると、今度は児童の教育問題を解決しなければならなかった。子供達はまだ教室も無く、青空天井の下で勉強していたのだ。字金城は田原のお隣で、村が軍用地になり自分達の村には帰れず、田原に収容されていた。
 そこで小禄、田原、金城の三ヶ宇の住民達は力を合わせて学校再建に取り掛かり、おかげで、屋根は茅葺き、壁はアメリカ軍の軍用テントを利用して、十二教室の八棟と教員室ひと棟が出来上がった。

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