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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(11)

 森の中の白骨死体(Ⅰ)
                                                            
 2005年の5月のことである。レジストロの北隣りのムニシピオ、セッテ・バーラスの警察署に、異様な届け出があった。町の北方、森の中の日本人の家で、白骨死体が見つかった──と。
 そこは、海岸山脈(通称)の麓で、昔、海興のキロンボ植民地があった処である。                       
 海興の現地担当役員、青柳郁太郎は既述の様に、1920年、リベイラ河を遡り、セッテ・バーラスで州有地の払下げを受け、新しい植民地造りにとりかかった。
 位置は──現在の地理で説明すると──町から州道を北へ7キロ行った地点を、左折して少し入った処である。そこに在った土地を二カ所入手、これを併せてセッテ・バーラス植民地と称した。
 その後、青柳は帰国したが、後任者たちは1927年、やはり州道を(左折せず)さらに行って、15キロ地点から17キロ地点までの右側で、もう一カ所つくり始めた。これがキロンボ植民地である。
 なお、このセッテ・バーラスも、当時はイグアッペの一地域であった。後に分離独立してムニシピオになる。
 キロンボ植民地には、一時は166家族、約1、000人の邦人が居って、開拓に従事していた。が、実は、余りの営農環境の悪さに、他への移動が絶えず、結局、戦後1950~60年代に消滅した──ということになっている。
 それから20~30年後の1981年、農業雑誌『アグロ・ナッセンテ』の取材班がサンパウロから出張、海岸山脈の北側から、キロンボ入りをした。「消えた移住地を求めて」という連載記事の取材のためだった。(「消えた移住地」は「消えた植民地」とするのが適当であった。当時は、混同して使われていた。移住地と植民地の違いについては次項末尾参照)
 筆者は、同時期、アグロ・ナッセンテの編集を担当していたので、よく覚えているが、この企画は、その51年前にキロンボに入り20年間そこに居った小野寺広という人が、同誌の関係者に語った昔話がキッカケになって、具体化した。
 小野寺氏は往事を語りながら、海興に対する激しい怒りと怨念を口にしていたという。植民地は、海興の事前の宣伝と違って酷い処だった、騙された──と。
 取材班が現地入りした時、(もう誰も居ない)と思い込んでいた森の中に、取り残される様にして貧しく生きているひと組の老夫婦を発見した。
 その老夫婦によると、なんと、ここには未だ4家族残って居る──ということであった。この記事は読者に衝撃を与えたものである。
 白骨死体の発見は、それから、さらに24年後である。その家には、お婆さんが一人で住んで居た。石川マサさん(当て字)といった。それで、白骨はマサさん、ということになった。
 セッテ・バーラスの文協の会長として、後始末に関わった遠藤寅重さんによると、マサさんの家には、ドクメント類も何もなく、出生や家族に関することは全く判らなかった。
 サンパウロの日本総領事館まで行き、移住者名簿を調べて貰ったが、手掛かりは得られなかった。
 マサさんは、キロンボ最後の住人であった。元気な頃は、時々、森の中で採ったパルミットを大きな袋に入れ、町に下りて来て売って歩いていた。遠藤さんの家にも来た。気の毒なので買ってやった。
 「兄が森の木を伐り倒していた時、誤って下敷きになって死んで以来、一人で暮らしている」と話していたという。ほかの家族は、それ以前に故人になっていたようだ。
 キロンボ植民地が滅びたのは、地形と市場への道の悪さのためであった。土地は、お椀を伏せた様な山ばかりで、農業には全く不向きだった。
 海興の事前の宣伝とは丸で違っていた。ために怒った入植者の転出や逃亡が相次いだ。小野寺氏の海興に対する感情は、実は全入植者のそれでもあった。誇大宣伝はレジストロの場合だけではなかったのである。
 右の「転出」は言葉通りの移動だが、「逃亡」は、海興に対して負債があっても、無視しての内密の移動であった。
 逃亡に対して、海興(現地事務所)は見張りを立てて阻止した。どうしても翻意しないと、清算を強硬に迫った。この見張りを、入植者の中から人を雇ってやらせたという。                    
 結局、逃げることの出来ない者が少なからず出た。彼らを含めて、ここに留まった人々は、山の中を、なんとか開拓して畑にした。
 が、作物を収穫しても、市場に運ぶのに難儀した。まず町に出なければならなかったが、道とは言えぬ道が一本あるだけ。
 しかもデコボコに荒れており、雨が降ると泥濘と化した。森林地帯であるから、その雨が多い。ために主作物の米の搬出で散々苦労した。
 野菜などは運ぶ途中、ガロアの湿気で腐ってしまったほど。(州道の建設が始まっていたが、直ぐ中断、そのままとなった。再開されたのは、戦後もかなり経ってからのことである)
 戦争が始まると、日本から派遣されて来ていた海興の社員は──ごく一部を除いて──交換船で帰国、入植者は置き捨てられた形となった。これも、海興への怒りと怨念を増幅させた。
 戦後、州政府は(戦時中に接収した)海興を解散した。残留者たちは他の土地へ去った。しかし去ることすらできぬ者もいた。
 先に記した1981年になっても、未だ残っていた4家族がそれで、石川マサさんの家族も、その中に居たのであろう。  

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