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アルゼンチンの柔道について=1906年からの深い絆=山本ファン・カルロス=(下)=2師範が開始、移民柔道家先導

新渡戸稲造(By published by 東洋文化協會[Public domain], via Wikimedia Commons)

新渡戸稲造(By published by 東洋文化協會[Public domain], via Wikimedia Commons)

 【らぷらた報知1月11日付け】東京オリンピック2020の日本柔道チームは、リオ・デ・ジャネイロ・オリンピック2016よりもパフォーマンスの向上が図られている。
 リオでは、総メダル数11個、金メダル3、銀メダル1、銅メダル8を獲得し、これは2012年ロンドン・オリンピックの散々な結果を挽回した。
 7つのメダルの内ただ一つの金メダルだけ獲得したオリンピック2012年ロンドン結果は、金メダル獲得の覇権を放棄した様なものだった。
 アルゼンチンの場合は、パウラ・パレットが獲得した北京2008銅メダルとリオ・オリンピック金メダルの二つにとどまった。

▼アルゼンチンの柔道

 アルゼンチンの柔道には、長い歴史がある。1906年、亜国海軍と契約した緒方義雄、渡辺孝徳両柔道師範がフリゲート艦サルミエントで来亜し、一年間教官を務めた。
 1906年、フリゲート艦サルミエントは遠洋練習航海7回目となり、日本の各港で乗組員は歓迎を受けた。それは日露海戦後、初めての訪日であった。
 当時アルゼンチン共和国は、イタリアの造船所で建造していた2隻の戦艦、ディーノリバダビアとマリアーノ・モレノを日本海軍に譲り、日露海戦の勝利に大きく貢献をしたのだ。
 横浜港での滞在中、フリゲート艦の指揮官 アドルフォ・M・ディアスは、日本の搭乗員が行った柔道の実演に驚嘆し、海軍省へ士官候補生の教育プランへの編入を上告した。省はそれを認め2人のインストラクターの雇用を承認した。
 こうして、緒方義雄、渡辺孝徳両師範が、将来海軍将校に柔道の技術を伝えられるようインストラクターとして選出され、1906年11月29日横浜からベルグラーノ港へ渡り翌日ブエノスアイレス港へ到着した。
 嘉納治五郎が世界各国へ柔道のアプローチに力を入れたのもこの時期であった。
 1902年、彼は最愛の師弟山下義韶(後、史上初の十段となる人物1865年~1935年)を北米へ送り、その講演会やデモストレーションに注目したセオドア・ルーズベルト大統領が、自ら1905年から1907年の間に北米の海軍兵学校で教官として彼を雇った。
 第2次世界大戦前のアルゼンチンでの柔道の普及は、日本人の師範に先導され、その多くは移民としてプロの師範(当時日本の高等学校では、義務教育の一環として柔道が指定されていた)やアマチュアの柔道家が来亜してきた。
 特に顕著な存在として熊沢太十郎(1897―1966、1929年来亜)、西坂等(1913―1993、1936年来亜)共に多数の弟子を育成してきた。
 戦後、柔道の普及に従い日系師範が多く現れた、その多くは、二世(ペドロ福間やエミリオ小波津他)や新しい移民者だ。特に50年代に来亜し、第1級の選手、師範であり何世代にも渡りアルゼンチン柔道家として素晴らしい経歴を残した山本頼行(1933―2011)は疑いもなく傑出した人物といえる。
 70年代に入り、競争力の有る高いレベルのテクニックを伝えた山下貞光、相馬英樹が、移民で来亜した最後の柔道家となった。
 日系社会は、優れた選手やインストラクターの発祥地として常に重要な地盤だったが、90年代終りには停滞期となる。
 しかし21世紀に入り柔道が日系社会で復活した。優れた練習で抜きん出た地元や日系の各団体(柔道と多様な関係を持つ各日系機関も含め)又、また国内だけでなく国際試合でも優れた成績を残す有望な日系選手、玉城ミノル、アレックス兄弟、平良マルコ、久木田イアン等を支える新しい協会の発足等が影響したのだ。
 また、東京2020年オリンピックの発展の目的で、「明日の為のスポーツ」を政府のイニシアティブとして国際協力を通じてできるだけ多くの選手の参加を促す日本政府のアルゼンチン一国に対する活動も重要な役割を果たした。
 日本政府は柔道に関する寄付例えば、280枚の畳やトレーニング器具をメトロポリタン柔道連盟へ、また柔道のコーチをJICAボランティアとして送り出している。
 そのボランティアとしてやって来た山形スミオ七段は、2017年3月より2年間の契約でメトロポリタン柔道連盟で務めている。山形は、2014年以来教えているボランティア菊池マサトシから二人目となる。
 これに続き柔道に関するJICAの協力は、三人の大学生と一人の中京大学のコーチをボランティアとして2月から3月迄の4週間アルゼンチンに送って来る。これは3年間のプランで行われJICAと同大学間で契約されたものだ。
 中京大学から始めに来亜するチームは、コーチの三宅恵介五段、学生は、森彩華、松岡将平、寺内大貴の3人、全員22歳三段で、2月13日から3月9日迄滞在する。
 滞在中、日本の大学チームは、沖縄県人連合会(COA)連携の下、首都圏各地区で練習稽古また地元のトレーナーや柔道家達とクリニックに参加する。
 沖縄県人連合会(COA)は、青年ボランティアの要望に対し、日系社会とメトロポリタン柔道連盟の連携役として働く。日本の若い柔道家達は、各文化活動に参加し地元の青年達との交流によって柔道を元に豊かな国際体験を持つ事と成るだろう。
 三宅恵介コーチは、教師や中京大学柔道部トレーナーとは別に、日本選抜柔道連盟の科学研究委員会戦術情報部員として関わっている。戦術情報部の主な仕事は、日本選抜のライバルチームの研究のレポートを日本チームのスタッフに送る事だ。
 最後のリオ・デ・ジャネイロ・オリンピック2016も1万本以上の試合をコピーし3千もの世界中のライバルの動きを分析し、個人プロファイルを制作した。
 また新しい規制を適用する際も主判の挙動を分析し検討されている。これらの努力は、最後のオリンピックRIO 2016年に日本のチームが出した結果に現れ(85・7%の選手がメダルを獲得した)、非常に高く評価された。
 チームはすでに次のオリンピック東京2020に向け新規則導入に対応すべく新しく取り組んでいる。

▼嘉納治五郎と当時

 柔道の創始者、1860年生まれ、封建制度の終焉から近代になろうとする当時、265年間封鎖により世界から孤立していた時代から、近代国家としての明治の始まりを迎えようとしていた時代。
 嘉納は日本の転換期の重要な人物の一人である。若い時から英語を習っていた嘉納は、西洋での経験から広い知識を得、主に教育活動へ重点をおく、そして世界への柔道普及にも力を注いだ。
 当時、柔道普及に役に立つ事件がおこる。1905年迄殆ど誰も知らない様なこの小さなアジアの国を、特に西洋の多くの国が関心を惹いたのは、日露海戦によって日本が強大なロシア艦隊を破った事だ。

米国で出版された新渡戸稲造著『武士道、日本の魂』([Public domain], via Wikimedia Commons, Hearn 92.40.10, Houghton Library, Harvard University)

米国で出版された新渡戸稲造著『武士道、日本の魂』([Public domain], via Wikimedia Commons, Hearn 92.40.10, Houghton Library, Harvard University)

 当時、米国で「武士道、日本の魂」と言う題名の本が発表された。著者新渡戸稲造(1862―1933)は、教育家で思想家でもある。新渡戸のこの作品は、長い間真のベストセラーとなり、また現在もより良い経済発展と日本の企業経営を理解するために読まれている。
 「小さい人でも、大きな人に勝つことが出来る」ために柔道が生まれた。
 1900年、西洋の読者のために英語で論理的に当時最近終焉した封建時代(江戸時代)に生きた武士の思想(礼儀)を書いた本。それは西洋の知識人や政治家例えば米大統領セオドア・ルーズベルトの注目を集めた。
 また、ルーズベルトは新渡戸の作品に驚嘆し、友人や親戚に分配したと言われている。
 アルゼンチンは、ラテンアメリカで柔道を1番最初に導入した国の一つだ。
 始めに述べたよう二人の日本人の師範・緒方義雄と渡辺孝徳を雇った。1906年11月29日、帆走軍艦サルミエントで航海し来亜した。これを記念して11月29日がアルゼンチン柔道の日となる。
 この二人は、初めてのアルゼンチンの柔道師範だけではなく、日本の第一回移民から20年しか経っていなく、また友好、貿易、航海で結ばれたアルゼンチンと日本国交から10年にも満たない、つまりその国交と言うのが来年開催される日亜修好120周年にあたる。(終わり)

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