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なぜ「ガンジーの息子たち」なのか=サルバドールのブロッコを訊ねる=聖市ヴィラカロン在住 毛利律子

「Filhos de Gandhy」(ガンジーの息子たち)の行進の様子(By Tatiana Sapateiro from São Paulo, Brasil, via Wikimedia Commons)

「Filhos de Gandhy」(ガンジーの息子たち)の行進の様子(By Tatiana Sapateiro from São Paulo, Brasil, via Wikimedia Commons)

 今年のカーニバルも終わり季節は秋に移った。ブラジルと言えばカーニバル。6年前に本格的にサンパウロでの生活をはじめ、その国を知るにはまず歴史から、と建国500年余の歴史を紐解きながら、ついでに、そもそもブラジルのカーニバルとはどういうものか調べてみた。

 そこで、インターネットの動画サイトでカーニバルの映像をのぞくと、そこで思いがけない名前を名乗るサルバドールのブロッコ(グループ)に遭遇して、画面にクギ付けになった。

 それは白装束の黒人男性だけで編成された一団が、路地から公道に流れる河のようになって数万の群衆の間を練り歩く映像であった。なぜ彼らは「Filhos de Gandhy」(ガンジーの息子たち)と名乗るのか。その白装束が意味するものは何か。とても印象的で、興味を掻き立てられたのである。

 インドのガンジーは、「非暴力不服従運動」の信念を貫き、20世紀初頭にイギリスからインドを独立に導いた。そのガンジーの思想に影響を与えたのは、19世紀のアメリカ人思想家ヘンリー・デイヴィット・ソローの小論文『市民の抵抗』であったといわれている。

 この論文は、例えばアメリカ合衆国では、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師などに影響を与え、広く20世紀の民衆運動、市民運動でスローガンとして掲げられ、広まった。

 アメリカの思想家、インド、西アジアの独立運動、そしてブラジルの黒人奴隷の末裔はどう繋がっているのか。

 インドのガンジ―を名乗り、インド風の白装束を着て、ガンジーのそっくりさんを選出して先頭を歩ませ、その後ろを、踊りは無しで、楽器の演奏だけで行進する訳とは。群衆は何故にこの一団に熱狂するのか。疑問は次々と湧きがってきた。

 そこで、方々尋ねてみたが、ほとんどの人が「知らない」と答えた。それでは、その謎を解くためにサルバドールに行くしかない。同じ分野の研究員であったパライバ大学教授に連絡を取ると、彼女は「まずは奴隷制を勉強することね。資料はここにあるから…」ということでパライバ州の首都ジョアン・ペソアに向かった。

 

▼ブラジルで最初に初日が上るジョアン・ペソア

副会長のジョゼ・フランシスコ氏(毛利さん提供)

副会長のジョゼ・フランシスコ氏(毛利さん提供)

 ジョアン・ペソアは、ブラジル北東部、西アフリカに最も近く、国内では一番最初に日の出が見られる町である。

 空港に出迎えてくれた教授の車でパライバ大学に向かった。大学の構内は広大で、女史の話では講義中に猿が出て来ることもあり、夜間は豹に気を付けなければならないそうだ。構内には大きな木が広い木陰を作り、絶滅危惧種に登録されているパオブラジルの苗木がいたるところに植え付けてあった。

 図書館には奴隷制についての資料は豊富にあったが、『フィーリョス・デ・ガンジー』については何も無かった。

 ジョアン・ペソアは国内有数の観光地ということであるが、当時(3年前)はサンパウロの投資家による高層マンションの建築ラッシュで、町中の自動車ディーラーの店は圧倒的に高級外車が並んでいた。歴史地区を抜けると、大西洋の広い海原を望むホテルやレストランが立ち並び、観光客でにぎわっていた。

 

▼サルバドールのけったいなガイド

 サルバドールでは、流ちょうな英語を話す男性のガイドが待っていた。この人物は超マイペースな人物で、案内の仕方にあきれたり、内心腹が立つこともあったが、驚くほど博学であった。

 彼の説明を少しでも疑ったような表情や声色をすると、「よし。それではバイア大学へ行こう。イヤ観光課に行く。チョットマテ。市役所がいい…」といった具合に動き回る。

 要するに彼の説を納得させるために客は引っ張りまわされるわけだが、そのおかげで実際にバイア州の歴史を、目で、耳で確かめることができた。

 ガイドが得意げに聞いてきた。「ファベーラの語源を知っているか?」

「知らない…」「やっぱりな…」と、ファベーラの由来を詳細に語ってくれた。

 その絵画を展示してある店に行き、実際にその絵から歴史のヒトコマを知ることができた。それによると、300年前にバイアのキロンボが住む沼地の周辺に咲いていた長い棘のある、白い花の名前に由来しているという。

 帰宅して調べてみると確かにそのような解説を見つけてので、ガイドの態度は気に食わなかったが、他にもたくさんのことを教えてくれた。後に野口英世について調べることになったのも、このガイドが案内してくれたバイア医科大学の正面玄関に掲げられた野口の記念レリーフを偶然見たことから始まった。

 

▼「フィーリョス・デ・ガンジー」の本部訪問

サルバドールにある本部の入口(毛利さん提供)

サルバドールにある本部の入口(毛利さん提供)

 サルバドール市の外れにある国際空港から湾岸に沿って市街に向かう道から見える海の色の美しさに、訪問者はまず圧倒されるであろう。

 カーニバルの時に人で溢れる公道こそがこの道路である、と説明を受けた。バイアとはポルトガル語の「湾」を意味しているが、その湾岸を道なりに進むにしたがって、上街(旧市街地:世界遺産)と下街が巨大なエレベータで繋がった、とても変わった造りをした町中に導かれていく。

 迂回路を行くと、街全体が起伏に富み、急勾配の坂道は古い石畳で埋め尽くされ、至る処に歴史的な壮大な構えの教会や修道院、砂糖産業最盛期に建てられたという多くの豪邸や、曲がりくねった坂の路地に原色の彩りの家並みが立ち並ぶ。

 ガイドに前もって依頼してあった上街にある「フィーリョス・デ・ガンジー」本部を訪れた。

 そこは、世界遺産のペロウリーニョ広場に面した路地の入り口近くにあった。

 ペロウリーニョとは罪人を縛り付けて拷問する柱のことで、逃亡奴隷を処罰した場でもあった。この奴隷市場跡地は今日、奴隷に深い思いやりを寄せていた作家のジョルジュ・アマードの博物館となり、周辺にはカポイエラ、バイア料理習学等、青年育成のための学校がある。

 本部は、白と青のペンキ塗りのこじんまりとした佇まいで、ドアは自由に出入りできるように広く開けられていた。

 部屋の壁にはカンドンブレの神々に囲まれたインドのガンジーの大きな肖像画が懸けられ、にこやかに出迎えてくれた本部職員はやはりインド風白装束のいで立ちであった。

 訪問した時は9月であったが、本部はすでに翌年のカーニバルの準備に入っていて、副会長のジョゼ・フランシスコ氏も会議の最中であったが笑顔で迎えてくれて、長い時間を割いて懇切な解説をしてくれた。

 その上、本部が発行しているいろいろな公式資料を気前よく提供してくれたこともたいへんありがたかった。

 

▼「ガンジーの息子たち」登場

創立者のドゥルバル・マルケス・ダ・シルバさん(毛利さん提供)

創立者のドゥルバル・マルケス・ダ・シルバさん(毛利さん提供)

 1758年、ブラジル国内では理想主義者や共和主義を目指す人々の間に、即時か漸進的の違いはあれ、奴隷制制度廃止の運動が高まり始めた。

 19世紀になると、世界的に奴隷制に関する状況が変わり、国際的には、イギリスの厳しい干渉と圧力や北アメリカの奴隷制廃止の影響を受けて、1888年5月13日、わずか二条からなる「黄金法」、全奴隷解放令にドン・ペドロ二世の皇女で摂政のイザベラが署名し、黒人奴隷制度の無補償の即時撤廃が実現した。

 この年は、ブラジルが二つの時代を画する変革の年となった。則ち、伝統的な家父長的伝統社会を築いた時代から、ヨーロッパからの大量の移民による賃金制への移行と都市活動を基盤とした合理的な社会への変化であった。

 しかし、奴隷制度解放後に黒人奴隷を支援する社会的仕組みは、国も、教会にも用意されていなかった。解放直後の奴隷はほとんど各農園内で従来と同じ生活を続けた。

 建前は自由市民、自由労働者となり都市部に流れても、奴隷制時代の約三百年間、人権もなく無償で働いてきた彼等を受容できる場所はなかった。

 人口の都市部集中現象はその頃から全国的に加速した。彼等は相変わらず社会の最底辺部で人格形成の基本となる教育、就職、住宅対策の無政策によって全域に無法地帯を膨らませていったのである。

 第2次世界大戦後の1949年、「ガンジーの息子たち」を結成したのは、常に最悪な労働条件下で重労働を課せられてきたサルバドールのアフリカ系黒人日雇い港湾労働者たちであった。

 歴史的に屈辱的な生き方を強いられてきた奴隷の末裔は、二十世紀に入っても一向に改善されない生活環境を変化させる方法の一つとして選んだのが、自らの力でブロッコを編成することだった。

 厳密にはブロッコは一般的にカーニバルに参加する団体のことであり、彼等が立ち上げようとしたのはアフリカに直結したヨルバ宗教カンドンブレを公然と祝うアフォシェ(宗教祭りを演じる団体)であった。

 ちょうどその前年の1948年1月30日に死去したガンジーの南アフリカにおける人種差別運動は、奴隷の子孫である彼らにも少なからぬ影響を与えた。

 

▼黒人奴隷とガンジーの名前の関係

 本部が発行している公式資料によると、発足の歴史は次のように説明されている。

     ◎

 発起人の一人で、命名を提案した人物、ドゥルバル・マルケス・ダ・シルバ(生没年不詳)は、「強制的に生地から引き剥がされ、無抵抗のままに虐げられてきた奴隷の子孫の尊厳を回復するためにブラジル文化におけるアイデンティティの確立を急がねばならない。それには、インド独立を成功させたガンジィーの功績に倣って平和と幸福を標榜する行進をカーニバルで実行するグループを立ち上げよう」という意義を同僚に唱えたという。

 団体の印象的な命名については、ガンジーの尊い名を汚してはならないという配慮から、GANDHIの(I)を(Y)に変更して登録し、ガンジーのDNA、コントラ・ヴィオレンシア・イ・ディゾベディエンシア(非暴力・不服従)を継承していると自負した。彼の提案はそのまま受諾され、そのスタイルは今日まで続いている。

 当初100人の登録者がいたが、警察当局の監視を恐れ、36人しか参加しなかった。カーニバルに参加するには衣装が必要となるため、この思想家の扮装を真似ることから始まった。

 

▼『インド風白装束着用』について。

 極貧の彼らには衣装や楽器を捻出する余裕はなかったが、その頃上映されたハリウッドの映画監督ジョージ・スティーブンスの1939年に制作された映画『ガンガ・ディン』に触発され、白いタオルで作ったターバンと白いシーツを切ってローブのように身体に巻き付けた衣装を着ることから始めたのである。

 マテ茶の空樽に皮をまいた太鼓を叩くことによって、サンバとは全く違うヨルバの伝統の音、カンドンブレのイジェシャーのリズムを奏でた。結成一年後に初登場となったが、このデビューは容易なことではなかった。

 二十世紀初頭の1905年2月24日の新聞「Jornal de Noticias Bahia」によると、警察はアフリカ人の子孫が公道でアフリカ風の演奏、民族衣装着用、結社を作ること、夜間に外出することなどを厳禁し、違反した者を厳しく処罰する警告を報じている。

 カトリック教会の司祭(その中にはアフリカのイスラム宗教文化で成長したインテリの黒人奴隷も含まれていた)やプロテスタントの牧師たちも奴隷の子孫が伝統宗教を独自に拝むことを厳しく禁じた。

 しかし、自らの尊厳を獲得するために警察の目を警戒しながら集合場所を変え、賛同者数は徐々に膨れていった。

 やがて70年代に、北アメリカでの公民権運動が盛んになるにつれ、ブラジル政府権力も黒人の主張や権利を容認せざるを得なくなった。

 80年代に入ると、人種差別、平和の実現という目標の下に、多くの著名人が参入し、新しいモデルとなった。

 彼らは1988年のブラジル連邦憲法に制定された「宗教の自由」「すべての国民の社会の民主的参加」「伝統的な知識に基づく学校規律の統合」「教育の環境改善」「地域経済活性化に配慮した政策活動」等々の政策に基づいて、地域の効果的かつ効率的な公共政策を推進するために、コミュニティの中心となって、アフロ・ブラジリアンの市民権と尊厳を守るための根強い活動を続けている。

 毎年繰り広げられるカーニバルのクライマックスは、「ガンジーの息子たち」の平和のための非暴力不服従の精神を掲げた壮観な行進で締めくくるのである。

 先導するのはガンジーの杖を持ったその年のガンジーである。後続の数千人の男たちは白装束を纏い、アフリカの神々を象徴とする白と青の色鮮やかなビーズの装身具を付け、頭にはガンジーを象った青いバッジの光る白いターバンを被り、悪霊や災禍を追い払うための清めのラベンダーの香水を撒き散らしながら行進する。

 トリオの上にはアフリカの神々に囲まれたガンジーの肖像が掲げられる。

 隊列は伝統のイジェシャー・リズムを基本に、楽器はアゴゴ、シュケレ(瓢箪の周りに貝やビーズ付けたもの)、アバタキを打ち鳴らし、現代楽器トランペットが加わる。

 天空には平和の象徴の白い鳩が次々と放たれる。男たちの姿は自信に満ち溢れている。そこにはかつての奴隷の苦難の歴史は微塵も感じられない。

 観客は、この魅惑的で威圧感溢れた、白装束の黒く美しい人の流れに、熱狂するのである。

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