勝ち負け抗争の巻き添えを食って1948年7月23日に亡くなった池田福男さんの作品が、今回の第13回文協総合美術展に出品された。72年前、勝ち組強硬派と勘違いされてアンシエッタ島に島流しされ、そこにいる間に描いた2枚の絵だ。山口県出身で、当時住んでいたパウリスタ延長線にあった家と、アンシエッタ島の景色を鉛筆画で描いたものだ。
1940年代、池田福男さんはポンペイア市に住み、ツパン市の写真店に通って働いていた。すこし病弱で、繊細な芸術家タイプの青年だったという。
1946年4月1日、勝ち組強硬派だった福男さんの兄(池田みつる)は、元駐亜国大使・古谷重綱襲撃事件に参加したが、未遂に終わった。しかし、野村忠三郎・元文教普及会事務長殺害事件が、同じ晩に別働隊によって起こされた。その影響で、翌2日に臣道聯盟関係者1200人もの大検挙に事態は発展した。
すぐに、兄は逮捕され、ブラジルの新聞に大きく報道された。池田福男さんは、それで初めて事件を知った。
福男さん本人は何も関係がなかった。にも関わらず、警察はすぐに「池田みつるの関係者」として福男さんを逮捕し、DOPS(政治経済警察)送りにした。その後、同年9月頃にアンシエッタ島に171人と一緒に送られた。島で福男さんは拷問を受け、すぐ病気になった。他の収監者と一緒の肉体労働ができず、絵を描いて、友達におみやげとしてプレゼントしていたという。
福男さんは写真を撮ることと絵を描くことが人生の支えだった。だから両親はアンシェッタ島の息子に鉛筆と筆を贈った。しかし、拷問の影響はひどく、福男さんの体調は悪化する一方で、1947年に病気になった。
そのせいで島からサンジョゼ・ドス・カンポスの病院に運ばれた。家族に移動させた通知がなかったので、ポンペイアに住んでいた両親はものすごく心配したという。
結局、1948年7月23日に福男さんは亡くなった。警察による死因報告は「自殺」となっている。
軍事政権時代の人権侵害を調べ直す真相究明委員会のサンパウロ州委員会の会合が2013年10月10日、州議会内で開かれ、福男さんと親しかった菅原静子さんは、初めてアンシエッタ島での池田福男さん拷問問題を社会に証言した(https://www.youtube.com/watch?v=eZ_pe5_ofF0)
当時、福男さんは菅原静子(旧姓横山)の家族と一緒にポンペイア市に住んでいた。
福男さんの作品は2017年、強硬派の一人だった故蒸野太郎さんのアルバムから見つかった。懐かしいポンペイアの家と、アンシエッタ島の景色だった。
その二つの絵のコピーは2017年9月23日の「アンシェッタ島日本移民の日」に、島の管理をするサンパウロ州立環境保護公園に寄付された。
福男さんの幼友達である菅原静子さんと福岡テレジーニャさんは、最後の願いとして、福男さんを「コロニアのアーチストの一人」として認めてもらえたらと思い、今回の文協総合美術展に出品を申し込んだ。
文協から出品が認められたことを受け、二人は「これで、福男さんは心安らかに休む事ができます」と語っている。これで、福男さんの作品をコロニア史に残ることになった。
ただし、戦争時代の日本人弾圧と迫害が、福男さんの命を奪ったことは忘れてはいけない。24歳の短い人生だった。