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特別座談会=四世ビザはどうあるべきか?=日伯交流の将来担う人材育成の枠組みとして=(2)

左から中学時代の島野さん、母さん、高校進学をサポートしてくれた英語の先生(島野さん所蔵)

左から中学時代の島野さん、母さん、高校進学をサポートしてくれた英語の先生(島野さん所蔵)

島野パトリシアさん

島野パトリシアさん

【深沢】何年くらいで授業についていけるようになったんですか?
【島野】小学校5年生の終わりごろに日本に行って、中学校の2年生くらいかな。高校進学を決めるちょっと前でした。
【深沢】中学2年で授業についていけるようになったということは、その間にものすごい勉強したんですか。
【島野】いやーそういう記憶はない(笑)
【深沢】かなりド根性で勉強しないと2、3年間で授業がわかるようにならないでしょ。しかも中学になったら急に内容が難しくなる。
【島野】はい。正確に言えば「勉強についていける」ほどではなく、「日常会話が通じるようになった」とか「意思疎通ができるようになった」というのが中学2年。
【永井】字も読めるようになっていたんですか。
【島野】ひらがなカタカナと小学校の低学年程度の漢字は読めるようになったんです。

▼素晴らしい先生との出会いで道が開けた

【深沢】高校も日本で行ったんですか。
【島野】はい。英語の先生のおかげで行けたんです。岡崎市内で初めて公立高校に入った外国人が私なんです。

▼高校2年で母が急死

【深沢】高校までぜひ行きたいって、すごい望んで進学したわけですか。
【島野】英語の先生から「パトリシアはどうなの。進路は考えてるの?」って聞かれて、「勉強したいです」って言ったら、一生懸命サポートしてくれたんですよね。
【深沢】いい先生に巡り合えてよかったですね。両親はずっと工場で働いて残業残業みたいな感じでいたの?
【島野】母とだけ行ってるんですよ。父はブラジルに残って。
【深沢】そうなんだ。お母さんと二人暮らし?
【島野】はい。
【深沢】お母さんは残業残業みたいな生活?
【島野】そうですね。
【深沢】学校が終わったら、家に帰ってひとりでテレビ見てという生活だったんですか。
【島野】そういうパターン。お母さんには私をサポートする余裕がなかった。だから自分で何とかしないと、どうにもならなかった。
【深沢】ブラジルにいたときは学校の成績はどうだったんですか。
【島野】ブラジルでは小学4年生までしか行っていません。成績はごく普通でした。べつに優秀とかではなかった。
【深沢】でもブラジルで4年生を終えて日本に行って、日本では5年生の終わりに転入したら、授業の内容もかなりギャップがあるよね。ハンデがかなりあったんじゃない? 普通だったら、その時点で落ちこぼれて学校行かなくなる。なんで学校に行き続けたんですか?
【島野】やることがなかったんですよ、ほんとに(笑)。学校に行くことしか。
【深沢】普通は友達を見つけてナモーラして、そっちが楽しくなる年頃。16歳以前でも工場で働いている人は一杯いたでしょ。周りには。
【島野】やっぱり学校の担任だとか、英語の先生から支援してもらったことが大きいです。すごいんですよ。中学、高校ともいい先生に出会ったことが今に至っていると思うんです。
【深沢】じゃあ高校も日本で卒業。
【島野】はい。で、高校2年生の時に母が他界をしまして…。
【深沢】えっ、日本で亡くなったの?
【島野】日本で。
【深沢】子供一人になっちゃったわけ。そういう場合ってどうなるの?
【島野】一時期、おじのところに身を寄せて、学校から特別に許可をうけてバイトすることになったんですよね。高校2年生から。
【深沢】その時にブラジルに帰ってお父さんところに行こうとか、そういうのはなかったの?
【島野】帰れなかったんですよ。
【深沢】どうして?
【島野】お金がなくて…。母も貯金をする余裕がなかった。毎月ブラジルにいた父親に仕送りをしながら、日本で私を育てていた。女性の給料ってすごく少ないじゃないですか。だからほんとに毎月のやりくりがいっぱいいっぱいだったんです。母が亡くなったときは貯金ゼロの状態。
【深沢】とにかく日本にいざるを得ない。勉強をしつづけて高校卒業後、どうしたんですか?
【島野】高校卒業後、また先生からサポートしてもらって就職することになったんです。就職先もその高校の先生から提案してもらった。自分的には工場でもどこでも、高い給料を払ってもらうところに行きたかったんですけど、先生から「パトリシアは日本語も勉強しているし、読み書きもできるし、高校も卒業しているから、ちゃんとしたところに就職しなさい」って言われて岡崎市民病院の医療通訳に。
【深沢】それは正規雇用で?
【島野】いや嘱託職員として。そこで1年間ほど働いて、少ない給料だったんですけど、そこからいろんな人との出会いがあった。1年後、3Mという派遣会社の、ブラジル人がいう「担当者」として医療サポートとか病院に連れて行く仕事を始めた。(つづく)

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