日が経つにつれて、キョーコとセーキ、そして、正輝の子どもたちは仲良くなっていった。キョーコはアキミツと同じ年で、8日だけお姉ちゃんだった。セーキはヨーチャンより何ヵ月か上だった。またいとこ同士はいっしょに遊んで、まるで3人の子どもが5人に増えたようなものだった。
そして、房子はもうすぐ出産だった。そんななか、正輝の子どもの一人が同じ年の子どもの出現により、ある怖れを抱くようになった。長男のマサユキは何も感じていない。五人の子どものなかで、いちばん年上だから、長男としての座が奪われるような心配などいらない。
アキミツはキョーコと同じ年だが、相手は女の子だから、家庭内で次男としての立場や権利が奪われる心配はまったくない。キョーコは迎えられた家で、ネナという愛称でよばれるようになっていた。日本人が発音しやすい名ということで、そうなったのだ。
新しい状況にいちばん反発したのは末っ子のヨーチャンだった。赤子のころから泣いたり、だだをこねたりしても、父母からきつく叱られることもなく、わがままを通してきた。彼はセーキから自分の立場を奪われるのではないかと怖れた。セーキは男の子でただ一人、あだ名をつけられていなかった。
ある日、セーキがヨーチャンのお気に入りのおもちゃで遊んでいた。ヨーチャンがそばにきて「ドケー、セーキ」と優しく、ゆっくり、ていねいにいった。意味が同じでも言い方によって、大きな差があることなど子どもたちにはわからない。ドケとはドクという動詞の命令形だ。いくら丁寧にいったとしても、命令は命令なのだ。ヨーチャンがいったようにドケをドケーと伸ばすのは、より強く命令したいからなのだ。大人はたまにだが、相手をひどく叱るときい使い、子どもはそのまねをする。たとえば、正輝が気が立っていて子どもが邪魔なとき彼らに向けて「ドケー」という。「立ち去れ」に近いいいかたのだ。
ヨーチャンの言い方が静かだったので、セーキは「すみませんが、そこをどいていただけませんか」という風にうけとり、そこを動かなかった。
すると、ヨーチャンはいつも兄たちにするやり方で「ドケー、セーキ」「ドケー、セーキ」「ドケー、セーキ」とヒステリックに大声でくり返した。セーキはやっとその意味を解して、おもちゃを置いて立ち去ったが、そのとき、自分はこの家では厄介者なのだと気がついたのだった。
1940年7月22日、4番目の子どもが生まれた。男子だった。今回は房子の4回目の出産で、お産の準備や後産の始末はウサグァーも手伝った。女である姪の手伝いは、これまでよりスムーズにことがはかどった。
いままで生んだ赤ん坊でいちばん大きく、3・2キロもあり顔がふっくらとまん丸だった。両親はミチオと名付けた。呼び名に「チャン」をつけず、この丸顔の男の子は本人が直接よばれるとき、「ミーチ」になったりした。
ミーチが生まれる数日まえ、正輝に土地を貸している田場家にも男子が誕生し、テツと名付けられた。房子はテツの母親、ウマニーのお産を手伝った。
沖縄で育まれた連帯感が、ブラジルでの困難な生活を乗り越えるためにいろいろな形で助け合うことになったのだろう。以来、保久原家と田場家は親密な間柄となった。マッシャースド区にきたばかりの二家族の間に、友情と信頼の絆がめばえ、以後、相互に助け合って困難をきり抜けることになった。ウマニーはよくミーチに乳を飲ませてくれた。いつも笑顔で丸々した赤ん坊は、両方の家族の間をいったりきたりした。ウマニーはよく「いっぺんのお産で二人も子どもができた」と笑いながらいった。ときには母親気分になることもあった。赤ん坊はどちらの家にいても安心しきっているようだった。そして、両方の家族の兄や姉たちにかわいがられた。
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