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島から大陸をめざして=在米 村松義夫(JAC日米農業コンサルタント)=第1号

焼け野原になった浜松市

焼け野原になった浜松市

 静岡県浜松市野口にて1941年9月生まれの私には、かの太平洋戦争の開始から終戦までの記憶は全く無い。また私の本籍が掛川市と言うことも、後日、父母や兄姉からの話でやっと理解することが出来た。1945年8月終戦の数ヵ月前、軍事産業の町浜松市はB―29爆撃機による広範囲にわたる大空襲で全域が焦土と化した。父親と長男は軍事工場勤務で戦地への派兵は免れた。家を失った一家は浜松を後にして母親の本家のある掛川市(当時は町)に疎開した。
 疎開先の本家は専業農家であり裏庭の別棟屋を与えられ、終戦後暫くして国有地の払い下げと、大土地所有農家のGHQによる分散農地を確保し、兼用農家として我が家は始まる事になる。同時に私の本籍も疎開先の掛川町に登録された。
 父母は農業に従事し、長男は建築業に雇用され、長女は家で洋裁を始め、次男次女も当時の町役場や製材工場に雇用された。三男は中学に、三女は小学校に通い、私も1948年、小学校への通学が始まった。

村松義夫さん

村松義夫さん

 嬉しかったのは給食時、大きなコッペパン、粉ミルク、そして最後にプルーンが出ることであった。家では麦飯とおやつはサツマイモだけであったので、給食は最高の楽しみの時間であった。担任の先生から給食の材料は全て米軍による支援だと聞かされ、戦争した相手国ではあるが、米国の支援に胸を打たれた思いは今でも記憶している。
 そんな小学生から中学に上級し、3年生終了後は就職を考えていたが、家族から高校進学を勧められ入学できた。幼年時から学校が終ると親の農作業を手伝っていたので、授業終了後は市内の酒屋の配達アルバイトを見つけ、週末も自転車で走り回った。アルバイト料が入っただけでなく、通学に長時間費やしていたが、自転車が自由に使たことで朝起きに余裕ができ便利をきたした。

東京農大の世田谷キャンパス正門(Hykw-a4 at ja.wikipedia)

東京農大の世田谷キャンパス正門(Hykw-a4 at ja.wikipedia)

 高校3年時も終盤になると就職か進学を決める時が来た。丁度その時、校内図書館で一冊の本と出合う。『海外拓殖秘史』(東京農業大学教授、杉野忠夫著)であった。家に持ち帰り読むうちに、止められず朝を迎え完読した。家族に相談し、また担任の先生にも相談し、この大学への受験を決意した。東京に向かい、世田谷のキャンパスで試験を受け、1960年4月「農業拓殖学科」に入学することが出来た。
 杉野教授の授業は、著書にあったとおり胸が躍る講義が聞けた。また南米へ移住された先輩達から教授への手紙の朗読にも胸を打たれた。戦後の日本は、農村の次参男対策や海外からの引き上げ者等の対策で、南米への移住が奨励され、毎月多くの移住者が神戸港、横浜港から南米に向かっていた。
 1956年、杉野教授は高等教育を受け日本の小農技術を持った農学士を南米の地に送り出す教育を東京農業大学、農業拓殖学科千葉県茂原分校で始められ、1957年第1期生の多くを南米に送り出した。(第2号に続く)

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