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日伯をつなぐ、知られざる名曲の数々(迷曲も)

 「鐘が鳴ります 耕地の鐘が ほのぼの明けた 空に鳴る」―ブラジル熟年クラブ連合会(上野美佐雄会長)の『第43回熟年クラブ芸能祭』が7月28日にサンパウロ市の静岡県人会館で開催され、数十年ぶりに合唱曲「幸せがいっぱい」(会田尚一作詩)が披露された。
 それを聞いた、夫の仕事の関係でブラジル駐在3度目の中村八大の娘Aさん(匿名希望)は、「父は3回ブラジルに来ている。そんな父が一番幸せだった頃の曲。私はまだ3、4歳で、ブラジルやメキシコから手紙をもらったのを覚えています」と懐かしそうに語った。
 「父のメロディーの特徴は、コード進行は難しいけど、歌いやすいことです。まさにそんな父の曲らしい覚えやすい、歌いやすい曲だとおもいました」としみじみと語った。
 中村八大は、70年の大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『上を向いて歩こう』など1950年代末から1970年にかけて数々のヒット曲を作り、レコード大賞も複数回受賞した。
 中村八大がリオ国際ポピュラー音楽祭に来伯し、その足で来聖してシネ・ニッポン(現愛知県人会館)で日本語普及会主催の「ホームソング発表会」に出演し、自ら作曲した独唱歌「ブラジルの歌(徳満悦子作詩)」と合唱歌「幸せがいっぱい(会田尚一作詩)」を発表した67年10月は、まさにその絶頂期だった。
 Aさんは「1回目の駐在の時、『仕事の関係でブラジルに行くことになった』と父に言ったら、健康上の理由で『行きたいけど行けない』と残念そうにし、『ブラジルには甘くて美味しい酒がある』と教えてくれた。こちら来て、それがカイピリーニャだったと分かりました」との逸話を語った。
 「大好きなブラジルで、この曲が再び歌われるようになって、父もきっと天国で喜んでいると思います」とAさんは微笑んだ。

合唱曲「幸せがいっぱい」(作詞=会田尚一、作曲=中村八大)
(1)鐘がなります 耕地の鐘が ほのぼの明けた 空に鳴る 大地に萌える 若草に 牧場の牛も うれしそう 若いブラジル しあわせがいっぱい
(2)見渡すかぎり カフェーの花が 咲けばそよ風 野にかおる 空に流れる白い雲 山はイッペーの花ざかり 広いブラジル しあわせがいっぱい
(3)憩う夕べに ビオロンひけば 唄う誰かの声がする 月のひかりにさえ渡る 空に南の十字星 明日のブラジル しあわせがいっぱい

知られざる松平晃の「ポエラ」

松平晃(本人撮影 [Public domain])

 中村八大が1967年に日系社会に曲を贈ってくれる前に、日本の有名歌手がブラジルのために作ってくれたが、今では忘れられている名曲がある。
 国外就労者情報援護センター(CIATE)の専務理事を07年まで3年間務めた田尻慶一さんから教えてもらった「ポエラ」(松平晃、作詞・作曲)だ。
 パラナ州のテーラ・ロッシャ(赤土)のホコリ(Poeira)のことをうたったほのぼのとした曲だ。
「ポエラの歌」(作詞・作曲=松平晃)
(1)ポエラ ポエラ 真っ赤なポエラ ポエラ ポエラ 困ったポエラ
カーロ(車)が走れば 走ったあとから 真っ赤なポエラが もくもく上がって 何も見えぬ ほんとにまったく 困ったポエラ
(2)ポエラ ポエラ 真っ赤なポエラ ポエラ ポエラ 困ったポエラ
雨がちょと降りゃ道という道 あちらもこちらも つるつる滑って どうにもならぬ ほんとにまったく 困ったポエラ
(3)それでも私は思い出す 真っ赤な 真っ赤なあのポエラ 服にもシャツにも帽子にも ポエラのしみが残ってる レンブランサ(思い出)が残ってる
 松平晃(1911―1961年、佐賀県出身)は昭和期の流行歌歌手。特に戦前1935年頃は、テイチクの藤山一郎、ポリドールの東海林太郎と並び、流行歌の一時代を築き上げた。一番の代表曲は「サーカスの唄」(1933年、作詞:西條八十/作曲:古賀政男」あたりだろう。
 彼は終戦すぐの1950年にキングレコードに移籍したすぐ後、ブラジルへ興行に来て病気になり、予想外の長い療養生活を送り、その間にレコード会社との契約期間が切れてしまい、事実上の歌手生命を終わらせてしまった。
 ウィキペディアには《この年、公演活動で渡航したブラジルで原因不明の血液病にかかり、何度も手術を受けた結果、声が荒れ、さらに興行主のミスで日本へ戻れなくなり、約1年半足止めを食らうという不幸な事件に見舞われる。このため、帰国後にはせっかく結んだキングとの専属契約が切れており、結局「湖畔の灯り」がレコード歌手として最後の曲となってしまった。その後は、ラジオ東京開局とともに始まった「素人のど自慢」の審査員を務めたりした。そして、後進の指導に傾注するようになっていく》

1951年1月18日付日伯毎日新聞、戦後最初の芸能使節団

 だいたいサンフランシスコ講和条約調印が1951年9月。戦後初の総領事・石黒四郎着任がその年の12月、戦後初の大使・君塚慎着任が52年9月だ。そんな51年1月に日伯毎日新聞社が「第1回芸能使節団」として東海林太郎、勝太郎、豊吉、篠田実父子を招へい、6月には「第2回」として古賀正男一行および虎造、市丸らが来伯した。
 それに加えて、三浦愛蓄堂が51年後半に松平晃を団長とする芸能団を招へいした。ところが三浦愛蓄堂が企画した「レコード・ファン芸能競演大会」の興行成績が振るわず、帰国旅費すら調達できなかった。そんな中、松平晃は病気にかかり、長期療養することに。ただし52年4月12~13日にはサンパウロ市のオデオン座で、松平晃を審査委員長とする「第1回全伯のど自慢大会」が開催されたとの記録がある。
 『コロニア芸能史』(コロニア芸能史編纂委員会、1986年)にも《松平晃団長、芙蓉軒麗花、曲師・中川加奈女。招聘責任者による不手際からか各地での興行は失敗に終り、芸能団一行は三邦字新聞社主催の同情公演(二日間)により、ようやく帰国》(PDF版2、56P)とある。

殿様キングスが迷曲「ブラジル音頭」

殿様キングスの「ブラジル音頭」

 この他、田尻慶一さんからは「殿様キングスが『ブラジル音頭』を歌っていた」とも教えてもらった。最初は「なみだの操」で有名な殿様キングスが、本当にブラジルのことを歌っていたのかと怪しんだが、調べると確かに実在した。作詞は井田誠一、作曲は利根一郎で、1983年発表だから、デカセギブームが始まる直前だ。
 4番まであるが、一番印象深いのは最後の歌詞だ。《人食いアマゾン ピラニアさえも うかれてとろけて ちょいとカーニバル 仲良し世直し 踊るため 大きく歌って でっかく踊れ イパ イパ イパネマ リカ リカ リベリカ サンパウロ》というもの。
 間違いなく、ブラジルに来たことがない人が作詞している。「ブラジル音頭」=カーニバルのことをうたっているのに、リオでなくサンパウロでしめている。しかも「イパ イパ イパネマ」(リオの有名なイパネマ海岸)まで連呼しておいて、だ。
 それに不可解なのは「リカ リカ リベリカ」の部分だ。それらしいのはコーヒー豆の種類の「リベリカ種」だ。これは、アラビカ種やロブスタ種とともに、コーヒー3原種。だが、世界全体のコーヒーの流通量の1%に満たない消費量しかなく、3原種の中で一番マイナーな存在。だいたいブラジルでは生産されておらず、当地ではほとんどがアラビカ種だ。なのに、なぜ「リベリカ」なのか?
 そして、最もポレミックな部分は、「人食いアマゾン」という恐れ入った歌詞だ。かつてインディオの人食い部族がいたという話は聞いたことがあるが、それが日本の歌謡曲の歌詞になっていたとは。日本はバブル前期とも言える好景気の時代であり、そんな勢いを反映した迷曲・珍曲だろう。
 デカセギ開始が1985年だから、その頃の日本人の頭には「人食いアマゾン」というイメージがあったのも無理はないのかもしれない。

1952年に日本でルイス・ゴンザガをヒットさせた生田恵子

 松平晃は不運なことにブラジル訪問を機に洛陽の時代を迎えたようだが、逆に脚光を浴びるキッカケになった歌手もいた。
 1951年、松平晃を団長とする訪伯芸能団の一員だった生田恵子は、サンパウロ州などの各地でステージに出演して好評を博していた。ブラジルRCAにてレコーディングを行い、その際に、本当かどうか確認のしようもないが、「ルイス・ゴンザガ直々に本場のバイオンの指導を受けた」という。
 ルイス・ゴンザガといいえば、ブラジル人なら誰でも知っている「バイヨン王(Rei do Baião)」と呼ばれる北東伯音楽の超有名作曲家にして歌手、サンフォーナ演奏家だ。
 生田恵子は1952年に帰国後、「東京バイヨン」他、ブラジル独自の「バイヨン」のリズムの曲を次々に日本でヒットさせた。

復刻版アルバム『東京バイヨン娘』(生田恵子、VICG―60227/1999年10月21日発売)

 1999年10月21日に発売された復刻版アルバム『東京バイヨン娘』(生田恵子、VICG―60227/)には「パライーバ」(1951年11月ブラジル録音)、「復讐」(51年11月ブラジル録音)、「バイヨン踊り」(51年11月ブラジル録音)、「リオから来た女」(52年5月14日録音)、「恋の花咲くサンパウロ」(53年1月発売)などが収められている。52、3年当時にこれだけブラジル推しの音楽を売り出した流行歌手がいたという存在自体がスゴイ。
 同『芸能史』では当時当地でレコード生産をしていた大手「カーザ小野商会」のレコード部調べとして、以下の記述を見つけた。同商会が邦楽盤レコードの発売を開始したのは、1950年から。まずは日本ビクターが提供する楽曲から始め、中でもSP(シングル)盤では、江戸川蘭子、藤沢蘭子による有名なタンゴ曲集が1950年に発売され、55年までに5万7千枚の記録を作った。これを破ったのが生田恵子だった。
 《生田恵子の「バイォン・デ・ドス」と「ヴィンガンサ」、「パライーバ・ムリェール・マッショ」と「東京の門」によって(この記録は)軽く破られました。
 生田恵子はビクターの専属歌手。帰国旅費捻出でいろいろとコロニアの話題となった三浦愛蓄堂招聘の「松平晃芸能団」の一員(他に浅草〆香、隆の家万龍、隆の家栄龍、芙蓉軒麗花、中川加奈女など)として来聖したのを記念、当商会がサンパウロで録音、発売したものです。
 前者の「バイオン……」は発売後僅か七か月間で三万三千枚、後者の「パライーバ…」も同期間の売上げは二万七千枚という驚異的なもので、各地からの注文殺到にプレスが間に合わず、プレス工程を三交代、一日二十四時間操業により、ようやく注文に応じたほどでした。
 三浦愛蓄堂による「レコード・ファン芸能競演大会」の成績が興行元の思惑を大きく下回り、このため一行の帰国旅費が調達できず〝立往生〟している、という現実が同情を呼び、ある程度にせよ売上げに影響を与えたものとも思われます。なお、「東京の門」を除く前記三曲の歌詞(訳)は詩人の古野菊生氏によるものでした》
 「三浦愛蓄堂」とは、戦前からサンパウロ市にあった日本の中古レコードの再販売店の大手。《嫁をやるにも貰うにも 先ずは蓄音機のある家庭》を売り文句にして、自主レーベルを作るぐらいの勢いがあり、独自に芸能団を招へいした。
 日本で出た復刻版に収録された「ブラジル録音」は、このカーザ小野商会のレコードが音源だろう。
 ただしポ語でいくら生田恵子とルイス・ゴンザガの関係を検索しても「ルイス・ゴンザガ直々に本場のバイオンの指導を受けた」という記述は出てこない。単に「生田恵子が日本語版をカバーして録音した」だけだ。指導うんぬんは怪しいかもしれない。
 ただし、ブラジルRCAは北米ニューヨークに本社を置く録音会社で、ビクター傘下にあった。1940年代初めに、ネルソン・ゴンサルベス(ブラジル歴代2位のレコード売り上げ記録を持つ超有名歌手・作曲家)やルイス・ゴンザガと専属契約をしていた。カーザ小野商会は日本ビクターと契約があったので、何らかのアーチスト同志の交流があってもおかしくはない。
 ネット検索すると「バイヨン踊り」というタイトルの「Baião de Dois」の日本語版が見つかった。(https://oglobo.globo.com/cultura/30-anos-sem-gonzagao-de-baiao-japones-plagio-americano-versoes-curiosas-de-hits-do-sanfoneiro-23849526
 このグローボ電子版記事よれば、生田恵子が録音したのはルイス・ゴンザガのヒット曲「Paraíba Masculina」と「Baião de Dois」の歌詞を日本語版に替えたもの。その翻訳を、古野菊生がやったのだと言うので、余計に興味深い。
 古野菊生は早稲田大学仏文科卒業後に移住したインテリで、1937年に創刊されたコロニア初の文芸誌「地平線」の主要メンバー。翻訳が得意で、戦後はリオ日本国大使館勤務後、帰国して京都外語大で講師を務めた人物だ。
 それにしても、1952年に日本で流行歌歌手が、あのルイス・ゴンザガのカバー曲をヒットさせていたという事実がスゴイ。
 松平晃の「ポエラ」は忘れ去られたが、生田恵子の歌った「バイヨン踊り」は復刻版が出されている。

軍歌「戦友」の替え歌「老いたる開拓者の歌」

 最後に忘れたくない替え歌を紹介したい。
 「ここはお国を何百里~」という軍歌「戦友」をコロニア版替え歌にして「ここはお国を何万里 はなれて遠きブラジルの 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下」と歌う「老いたる開拓者の歌」(アリアンサ、萩原彦四郎作)だ。戦前の植民地ではよく歌われていたという。
 22番までの歌詞を辿ると初期移民の苦労が行間にきざみこまれており、涙なしには歌えない傑作だ。サイトには全歌詞を掲載した。同船者会や植民地出身者懇談会の折などに、ぜひ声に出して合唱してみてはどうか。
    ☆
 中村八大、松平晃、生田恵子らは実際のブラジル体験をもとに、日伯音楽史に刻まれる楽曲を残した。これを機に、いろいろな機会にこれら曲が歌われてもいいのでは。いずれは独唱歌「ブラジルの歌(徳満悦子作詩)」の方も復活してほしい。(深)

軍歌「戦友」のコロニア版替え歌「老いたる開拓者の歌」(アリアンサ、萩原彦四郎作)

(1)ここはお国を何万里 はなれて遠きブラジルの 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
(2)思えば悲し昨日まで 真っ先かけて村のため 骨身惜しまずつくしたる 友はここに眠れるか
(3)ああ開拓の最中に 隣におりし我が友の にわかにはたと倒れしを 我は思わずかけよりて
(4)かねて覚悟の前なれど これが見捨てて置かれよか しっかりせよと抱き起こし 仮りの手当も森の中
(5)おりから渡る雁の声 友はようよう顔あげて 我が亡がらを踏み越えて 進みくれよと目に涙
(6)痛手はかるいよその内に 笑いながらに手を取りて やろうよやるよと答えたが 長の別れとなったのか
(7)心ばかりははやれども 人里はなれし森の中 みとりのすべもかいなきや も一度立てよと願うたに
(8)空しく冷えて魂は 天に昇りてもの言わず 無心に梢を飛びかわす 野猿の叫びもうら悲し
(9)思えば昔船出して お国が見えなくなった時 玄界灘で手を握り 名乗り合いしが始めにて
(10)それから後は一本の タバコも二人で分けてのみ いまだ見ぬ国に打ち立てん 若きのぞみを語り合い
(11)肩をたたいて口ぐせに 椰子の下こそ我が墓ぞ 死んだら骨を頼むよと 言いかわしたる二人仲
(12)思いもよらず我れ一人 不思議に命ながらえて 赤い夕日のブラジルに 友の塚穴掘ろうとは
(13)うるむまなこに見つむれば 仮りの友の名記したる 墓標の墨の香新しく すだく虫の音あわれなり
(14)春去り夏すぎ秋もゆき 幾度花は開けども 天に昇りし我が友は 再びこの世に帰らじな
(15)移り来たりて三十年 斧鉞(ふえつ)を知らぬこの里も 今や緑も消えうせて ただ一色の枯れ野原
(16)緑と共になごやめる 人の心も消えうせて 正しきものは吹きすさぶ 嵐の中に沈みゆく
(17)人は再びカナンの地 求めて去るや西東 我も遅れじ思えども 老いたるこの身をいかにせん
(18)腰に張りたる梓弓(あづさゆみ) 頭に頂く朝の霜 心矢竹にはやるのみ むなしく望む大麻州
(19)そのかみ異国の歌人が 幸い求めてはるばると 尋ね尋ねて涙ぐみ 帰りし言の葉思い出ず
(20)いつまで追わんか青い鳥 いずこにあるや青い鳥 長い旅路をふりかえりゃ 瞼に浮かぶは老いし母
(21)恋しやふるさとそもいかに 裏の小川に鳥の声 鎮守の森もそのままか 夢路にたどるはくにの空
(22)ああ青春は今いずこ 荒れ古(ふ)る家に我児(あこ)を待つ 夢にも忘れぬ母思い おもわず落とす一しずく