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中島宏著『クリスト・レイ』第124話

 僕は、このブラジルという国から一度も外へ出たことがないから、そのことを本当に理解せよといわれても、ちょっと無理な話だけど、でも、そういう人たちを間近に見ていると、何かその辺りのことがおぼろげながら分かりそうな気分にはなるね。ところが、アヤを見ていると、その部分が全然見えて来ないんだ。そういう、故国を懐かしむとか、母国への望郷の念というような心情的なものが、まるで見当たらないという感じだねアヤの場合は。僕にとって不思議なのは、なぜ君にはそれがないのかということだね。
 いや、実際は心の中にそれはあるのだろうけど、それを表に出さないで平然としていられるというところが、僕にとっては一種の謎のように見えるね。謎多き女、アヤ。そんな不思議さが君にはある」
「ちょっと待ってよマルコス。それではまるで私は、別世界から来た、謎に包まれた未知の女というふうなことになってしまうわ。まあね、空想の産物としては面白いでしょうけど、それはあなたの考えすぎというものよ。それでは、かなり現実離れした、架空の物語ということになってしまうわね。
 こう見えても私は、ちゃんと血も涙もあり感情もある、まともな人間ですからね。そんな得体の知れないような、謎の生物だなんてことはありません」
「でもねアヤ、普通の人と比べて明らかに違う人間は、まともとはいえないよ。もちろん、それはいい意味でのことだけどね。つまり、僕が言いたいのは、そういう変わった思考を持つ、まともではない人間がどうやって形成されたかということだね、そこに僕はすごく興味をそそられるんだ。僕が言う不思議さというのは、そういうことなんだ」
「変だとか、まともでないとか、まるで散々な言いようね。マルコスも私のように少しは遠慮というものをわきまえてもらいたいわね」
「もう、そういう時期はとっくに過ぎているよ。遠慮のない会話は、ここのところずっと当たり前のようになっているし、今さら格好をつけてみても始まらないと思うね。それよりもね、アヤ、君の心の中では、日本の国とブラジルの国の存在というのは一体、どんな形を持つものなんだろう。つまりね、アヤにとって心の中心を占めるのは日本なのか、それともブラジルなのかということだけど、そのことは外国人としてこの国に住む人たちにとってかなり複雑なものだと思うけど、君の場合はその辺りがどうなのかを、ちょっと知りたくてね」
「うーん、かなり難しいテーマね、それは。正直なところ、急にそれを聞かれてもすぐには返答ができないという感じね。ただ、たとえば重さということを基準に置くとすれば、私の場合それはブラジルということになるわね。これからの私の人生が決められていくという意味では、このブラジルという国が私にとっては最も重要なものだし、それが中心にあることは間違いないことね。
 もちろん、日本という国も大きな存在を占めるものだけど、でも、私にとって日本はもう、過去形の存在ということになるかしら。確かに、望郷の念はあるけど、いつまでもそれに囚われていたら、目前にある仕事に真剣に取り組むこともできなくなってしまうわね。だからその辺は思い切って割り切ることが大事だと私は考えてるの」
「その場合ね、アヤ。そういう割り切るという気持ちを、自分で努力して作り出していったのか、それとも、そういうことに関して君の場合は、比較的淡白だったのかどうか。その辺りはどうなのだろう」