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特別寄稿=笠戸丸移民大田向雪の苦難の生涯=過酷極めたノロエステ鉄道工事=執筆 金城エジソン健児/翻訳 建本みちかマルリー=(下)

ノロエステ鉄道工事を耐え忍ぶ

大田亀寿氏

 このノロエステ線鉄道工夫となった笠戸丸沖縄県人は、記録に残っている名前を上げれば、大田向雪の外に大城幸喜・カメ夫妻、大城蒲戸・ウト夫妻、新垣美三郎・カメ夫妻、知念亀、島袋蒲、新垣ナベ(旧姓島袋)、池原次郎、比嘉仲直、比嘉徳松、宮平松、仲程仙五郎、大城良宗、玉里幸一夫妻、知念松、知念五郎、照屋堅吉・カマ夫妻、田場蒲戸・ウシ夫妻、古波蔵巌、金城太次、山城梶一郎、古波蔵加真、比嘉牛、仲座健徳、赤嶺喜佐らであります(ブラジル沖縄県人会発行『ブラジル沖縄県人移民史―笠戸丸から90年』参照)。
 しかし、鉄道工事の現場は、過酷極まる難工事でした。海抜わずか80から150メートルの低地の湿地帯で、雨が降り出すとたちまち泥んこの水びたしとなり、盛り上げた土はあっという間に流れ落ちる工事が続きました。
 彼らの働く時間は、朝は7時に始まり、午後6時に終わる10時間労働でした。住む家と言えば、雨露をしのぐにも粗末な掘立小屋に寝起きして、食事は豆をマンジョーカ粉で炊いた、いわゆるフェィジョンでした。夜になると原始林の奥から猛獣の鳴き声が聞こえ、毒蛇に怯えなければなりませんでした。
 しかも、昼となく夜となく襲ってくる蚊の大群が大変でした。これが仲間たちを恐怖のどん底に陥れたのです。マラリアです。
 低地の湿地帯での重労働とマラリアの感染で仲間たちは次々と倒れ、工事がカンポ・グランデの終点に至るまでに実に20数名の仲間たちが命を失ってしまったのです(以上前記著書参照)。
 大田向雪は、このような過酷な鉄道工夫の労働に良く耐え忍ぶことが出来ました。

大田向雪と私の祖父金城亀

 ところで、向雪がこのノロエステ鉄道工事に就労して働き続けたのは、息子亀寿の将来の義理の兄弟となる金城亀をブラジルに呼び寄せ共に働いてお金を貯め、共同で土地を購入して独立することを考えての事でした。
 そうすれば貯金を増やして妻と息子をブラジルに呼び寄せることができると思ったからでした。この金城亀こそ私の父郁太郎の父、つまり私の祖父であります。
 金城亀は、沖縄県小禄村田原で1897年2月11日に生まれました。1917年4月20日に向雪の呼び寄せで単身若狭丸に乗り、同年6月15日にサントスに着岸しました。その際サントスで記念に撮影したのが下の写真です。二人は早速マット・グロッソ州に行き、アギダウーナ地方の鉄道工事に従事しました。
 しかし突然襲ってきた心臓発作で倒れ、同年8月11日の夜明けと共にマット・グロッソ州で息を引き取りました。渡伯して僅か2カ月後のことでした。家族のために大金を稼いで帰る夢を果たすことなく、荒野の果てに無念の涙を呑んで死去したのです。
 祖父亀は、小禄田原からのブラジル移民第1号でした(祖父亀のことについては、『群星』創刊号の上原武夫「父の意志を遂行した金城郁太郎の移民物語」参照)。
 祖父金城亀の夢も向雪と同じであり、沖縄に残した家族を呼び寄せお金を稼ぐことでした。しかし祖父は未開の奥地で急死して、向雪は同伴の友を失い夢破れてしまいました。それでも向雪は前進していかなければいけません。

向雪のブラジルでの家族形成

大田亀寿、モウシ、ハル子

 沖縄を出て10年経った頃、ようやく多少の資金も貯まったところで妻と既に18歳になっていた次男亀寿を呼び寄せることにしました。亀寿は1918年12月28日ハワイ丸でブラジルへ渡ってきました。妻は家を守り、亡き長男の側にいてやりたいと言ってブラジルへは来ませんでした。
 向雪は、落胆しましたが息子と力を合わせて、鉄道工夫で得た収入で購入した小さな土地を耕しました。
 やがて亀寿は所帯を持つ年頃になり、沖縄に将来を約束した大田モウシがおり、1921年に彼女を呼び寄せて正式に結婚し、新たな家庭を築き始めました。向雪の妻はその際もブラジルにやってこなかったけれど、向雪はいつの日か自ら沖縄へ出向き、一緒に連れてくる日を夢見ていました。彼はなおも懸命に働き、家族の生活を良くするために励まなくてはいけませんでした。
 アキダウアナ市で1922年12月30日に長女ハル子が誕生し、家族にとって大きな喜びでした。沖縄の妻にも初孫誕生の喜びを知らせる手紙を送りました。
 しかしその一帯の土地は肥沃ではなく、幾年も耕作を続けてきたことで生産は減少し、沖縄県人が多く住むカンポ・グランデ市へ移り住むことになりました。その地で亀寿・モウシの長男ジョゼが1925年1月4日に生まれ、家族にまた大きな喜びをもたらしました。
 愈々家族も増えて、サンパウロ州のプロミッソン市の土地はとても良く、収益を上げることができると聞き、この地域に再び移動しました。向雪はこの地で新たに3人の孫に恵まれました。亀寿・モウシの次女ローザが1926年11月11日に生まれ、次男アントニオが1931年7月8日に、そして三女のテレーザが1932年9月17日に生まれ、家族が増えたことへの喜びから益々皆仲良く絆を強めました。
 向雪は、今度こそ妻もブラジルへ来る決心をしてくれると思っていました。しかし彼女は沖縄の家と亡き息子のそばを離れる気はなく、向雪を悲しませました。それでも自分の心の中ではいつの日か沖縄へ帰り、妻を連れて来て家族全員で仲良く暮らす日を夢見て楽しみにしていました。
 家族が増え、もっと大きな土地を探す必要がありました。そしてパラグアス・パウリスタ市へ移り、10アルケールの土地を購入してコーヒー、綿花、米、大豆等を栽培しました。
 毎日朝日が昇る時間から暗くなるまで畑で働き、疲れて家へ帰る日々でしたが、孫たちが無邪気な笑顔で迎えてくれた瞬間に疲れは消え去り癒されました。孫との楽しいひと時を過ごした後、さっぱりとシャワーを浴び、家族揃って夕食の食卓を囲みました。
 愛する沖縄での貧しい暮らしの話をすることも多々ありました。しかし同時に故郷と妻への懐かしい気持ちが込み上げてきました。孫たちには明るく話しましたが、内心では懐かしさと淋しさで胸がいっぱいになってしまうのでした。
 日が昇る前に自分で栽培したコーヒーを淹れて飲むのが至福のひと時でした。まだ幼子も多い息子と嫁は、毎日の労働に励み、夜遅くまで子供の世話をする日々が続きました。

「いつか沖縄に」との思い秘め、骨を埋める

 大雨や干ばつ等、悪天候によって一年間の労働が無駄になることもあり、沖縄に戻って妻をブラジルへ連れて来るための資金がなかなか貯まりません。向雪はその悔しさを胸に、小さな土地での日照りの労働で疲れ果て、夜は息子とサトウキビの蒸留酒(通称、ピンガ)で晩酌し、沖縄の泡盛を飲んでいることを想像しました。
 そのように沖縄を思い出し、疲れた体に故郷を偲ぶ思いが染み渡るようでした。ピンガの効能で疲れと懐かしさの痛みが和らぎ、気分が落ち着き、眠れました。故郷へ帰って妻と一緒にいる夢を度々見ましたが、目が覚めればただの夢にすぎませんでした。
 それでもブラジルの地で大田家の家族を形成する夢は達成できました。しかし、いつの日か沖縄へ戻り、妻を連れて家族揃って暮らすという夢は向雪の頭から離れることはありませんでした。けれども大家族となったわが家の出費は増える一方であり、余分な負担をかけたくなかったため、そのことは自分の胸の内に収めました。
 わが子亀寿・モウシの家族と共に暮らし、多くの孫に囲まれて幸せに暮らす喜びの中にありましたが、笠戸丸移民大田向雪の生涯は、多くの困難と労苦を重ね、とうとう妻との再会を果たすことが出来ないまま、1943年10月10日にこの世を去りました。
 望郷と妻への愛念に駆られながらも、ブラジルの大地にわが子を呼び寄せて大田家の家族を形成するという自分自身で定めた役目は果たしたという達成感を胸に。享年62歳でした。
 現在向雪は、サンパウロ市から130km離れたアメリカーナ市のセミテーリオ・ダ・サウダージ墓地で永遠の眠りについています。その後、子孫の手によって沖縄に眠る向雪の妻並びに長男の遺骨が大田家の墓標の下に納骨され静かな眠りについています。
 最後に、私がまだ少年の頃から今は亡き父郁太郎は、大田向雪のことや祖父亀のことを良く語り聞かせてくれました。私は、ブラジルにおけるわが金城家のルーツに強い関心を持つようになり、祖父亀と祖父を呼び寄せてくれた大田向雪とその家族の足跡について書いてみたいという衝動にかられ、大田家の亀寿・モウシの長女ハル子の次男の次女瀬長ローザさんにお会いして色々と話しを聞き、また各地を訪ね歩いて調査を重ねて、2016年11月に自著『約束を果たした幸せ』を発刊しました。
 私は、本稿を仕上げるに当り、笠戸丸移民について編集長の宮城あきら氏とお会いし語り合い、多くのことを学びました。本稿は、未熟ながら大田向雪の苦難の足跡を簡単に纏めてみたものです。(2019年8月21日執筆)
(終わり、※本稿はブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』6―7合併号から転載。同号は編集部で絶賛有料配布中)

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