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宝塚の舞台に立った日系二世=斎藤アテンさん=戦中、戦後、日本が食べものがなかった頃=思い出大切に仕舞う

2005年11月25日(金)

 戦時中、九十年の歴史を誇る宝塚歌劇団の舞台に立った日系人二世がいた。斉藤政子アテンさん(サント・アマーロ市在住)だ。当時のトップ女優、故・宮城千賀子さんと「宮本武蔵」「歌ふ狸御殿」に男性役として出演した。「あのときは、つまずかないかと思ってはらはらしたわよ」。宮城さんとの写真を見ながら当時を振り返った。
 一九三九年、斉藤さんはリベイロン・プレット市とパラナ州の領事を務めていた父親が帰国命令を受けたため、十三歳で日本に渡った。「着いた時から着るものも食べ物もなくて、ブラジルから持ってった服や髪形とかうるさく言われたわよ」。
 宝塚歌劇団は兵庫県宝塚市に本拠を置く女性だけの歌劇団。一九一四年、現在の阪急電鉄を創設した小林一三によって創立された。宮城さんと知り合ったきっかけは、小林さんの友人宅で開かれたパーティに出席したこと。招待客の一人であった歌手・淡谷のり子が宮城さんを連れてきた。アテンさんは身長一六六センチメートルと、当時にしては長身だったため、役者が足りなくて困っていると話していた宮城さんの目にとまった。「背が高いだけじゃなくて、テニスをしていたから体格もよかったのよ。しかも痩せていたの。当時、食べる物がろくになかったんだから痩せてて当然よね」と笑う。
 その後、「試験にだけでも来てちょうだい」という宮城さんの言葉におされ、試験に合格、男性役に抜擢された。二週間ほど練習をして、一九四四年、東京宝塚劇場で行われた宮城さんがお通役を務める「宮本武蔵」に十八歳で出演した。「舞台に立ったなんて言わないでよ。ただ主役について歩くだけの役よ」と話し「男性役だから、胸に新聞紙入れてぺっちゃんこにされたわよ。あと、足が大きかったから足袋から足がはみ出て大変だったわ」と当時を思い出した。
 戦後も宮城さんとの関係が続き「歌ふ狸御殿」にも出演した。「観客はいっぱいだった。戦前は女の人がいっぱいいたけど、戦後はアメリカ人の観客が多かった」と当時の印象を話す。
 しかし、第二次世界大戦を経験しているアテンさんは「悲惨な状況の日本を見た。二度と戦争は嫌だ」と、一九五〇年に朝鮮戦争が始まったのをきっかけに帰国した。
 「やっぱりブラジルのサンバに敵うものはないわね」と笑うアテンさんだが、宮城さんが亡くなるまで交際を続けた。「とっても綺麗な人だった」と昔の写真を大切に仕舞った。

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