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「没後10年 気取らない料理愛したジョビン」

グルメクラブ

10月8日(金)

 音楽家のトム・ジョビンが世を去って今年で十年。記念発売された彼の代表作「エリス・エ・トム」DVD版が売れている。歌姫エリス・レジーナとの掛け合いが絶妙な収録曲「アグア・デ・マルソ」は、二十世紀ブラジル音楽史に残る金字塔だ。
 この不滅の名盤が録音されたのは一九七四年だという。三十年を経ても色あせない、練られた魅力には脱帽させられる。今DVD版では日本市場を見据えてだろう、日本語字幕を選択できる配慮もあって驚いた。地球の反対側でのジョビン伝説もまた永遠らしい。
 そのジョビンのフルネームが、アントニオ・カルロス・ブラジレイロ・デ・アルメイダ・ジョビンだったとグルメ雑誌「GULA」最新号で初めて知った。ブラジレイロの一語を見つけたときは心躍った。やっぱり。ブラジル音楽の横綱に相応しい名前なのだ。今号の特集はトム・ジョビンが好んだ料理について。見出しの「食の好みもブラジレイラ」が技あり一本、すべてを物語っている。
 晩年のジョビンの肖像写真といえば、パナマ帽に葉巻をくわえたちょっぴりキザな姿が印象的だが、その大の好物は鶏肉と米で作ったスープ(カンジャ)と、溶いた卵を乗っけた牛肉ステーキだったという。ボサノヴァの貴公子は意外に庶民派? そんな気取らない逸話が華麗なジョビン伝説にワビ・サビを添える。
 「父はごく一般的な料理が好きだったんだ。ブラジルチックなね」と息子でギタリストのパウロ。仕事でニューヨークに長期間滞在していたときのこと。ジョビンは郷愁を解消するため、溶き卵をぶっかけたステーキと、ブラジル風の油ご飯をよく食べていたとは家族ならではの飾り気のない証言だ。行き着けのレストランのひとつ、レブロン区「プラッタフォルマ」(以下『プラッタ』に略)の主人アルベルリコの話も素顔に迫っている。
 「そう料理に関しては確かに保守的だったが、マニアな一面もあった。半茹でのニンニク五、六片が食卓には欠かせなかったんだ。トムはそれを手で砕いて肉や魚に加えて食べていたもの」。「プラッタ」には午後一時ごろから顔を出し、生ビール片手に夕刻までいた。指定席は入り口そばの一番テーブル。音楽家のシッコ・ブアルケや、作家のジョアン・ウバルド・リベイロらが相席する場合が多かった。お気に入りの料理素材はバデージョやサーモン、エビなどの魚介類。肉類もそうだが、シンプルな炭火焼きを好んだ。
 「レブロン区のベルムーダ(バミューダショーツ)三角地帯」について記されたくだりも読ませる。地元の人気飲食店「ブラカレンセ」「プラッタ」「コバル」――。いわく、海水パンツ姿のカリオカ野郎が集う三角地帯だ。ジョビンは「プラッタ」にいるときでも、「ブラカレンセ」のモコトーやドブラジーニャが食べたくなったりした。だが、体は一つしかない。そこで「プラッタ」の従業員を、「ブラカレンセ」にまで走らせることしばしばだった! 単なるワガママじゃないか。いや、欲求にストレートなカリオカ、その代表人らしいエピソードはむしろ粋にさえ映る。釣りを趣味としたジョビン。釣ってきたばかりの魚をレストランに持ち込み、焼いてくれと頼むことも珍しくなかったそうだ。無論、カリオカの王様だからこそ許された堂々たる「営業妨害」なのだ。
 素材を活かしたブラジル料理を、欲した時にすぐ頂く。一見豪壮なジョビンも実は若い頃から胃弱で、男盛りにして日々の食事でコレストロールのコントロールを義務付けられていた。カンジャや炭火焼といったアッサリ系を少なからず愛したのは、健康維持を考えてのことだった。だが、パリに行けばコッテリとしたエスカルゴやコショウ風味の分厚いステーキをバクバクたいらげたと知ればなんと言っても破天荒。そんな風に食べることにまで命をかけた(?)伊達な音楽家は、不世出の「ブラジレイロ」だったと改めて感心してしまう。
 これまで画家のアニタ・マルファッティやカンディド・ポルチナリ、劇作家のネルソン・ロドリゲスなど歴史的文化人の食生活に関する記事を定期的に扱ってきた同誌。没後十年が経過していま、ジョビンもいよいよ「歴史」の仲間に入れられたかと少しさみしくなった。

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