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ブラジル料理雑記-5-リオデジャネイロ(下)

グルメクラブ

2005年8月5日(金)

 「バナナの値段(プレソ・ダ・バナナ)」という。「廉価でお買い得」の意味だから、その張り出し紙を店頭で見かけるとうれしい。ブラジルらしいひねりが利いている表現だ。
 そんな言い回しが使われ始めたのはいつからか。と考えて思い出したのが『イエス・ノス・テーモス・バナナ』の一節だった。〈僕らにはバナナが売るほどある/バナナ、メニーナ(少女)はヴィタミンたっぷり/食べればふくよかに成長するのさ……〉。一九三八年のパーティーで最も流れていた歌の一つである。
 だがそれは、アメリカンソングの大胆な「翻案」から生まれた。二三年に世界的に流行した『イエス・ウィー・ハブ・ノー・バナナ(はい、バナナはありません)』という文法上の誤りを笑った歌に目をつけ、「換骨奪胎」している。
 三八年といえば、映画『バナナ・ダ・テーラ』が製作された年だ。二十世紀ブラジルを代表する歌姫・女優カルメン・ミランダの主演作で、その後ハリウッドに活躍の場を移す彼女が出演した最後のブラジル映画だった。バイアーナの衣装、ターバン、底の高い靴。彼女のおなじみのイメージはここに生まれた。 もうひとつの典型は「色々な果実を載せた帽子(トゥティ・フルッティ・ハット)」を被っている姿だろう。ただ、実際の彼女はマンゴーなんかを食べると、ニキビが出るのでほとんど食べなかった。
 その帽子だが、バナナの飾りは記憶にない。目立っていたのは、パイナップルだろう。『アクアレラ・ド・ブラジル』で知られ、カルメンに数多くの曲を提供したアリィ・バローゾは、そのパイナップルとフィレ肉をはさんだサンドイッチが名物の「セルヴァンテス」の常連だった。
 コパカバーナ区プラド・ジュニオール街335に現存する。創業は五五年、カルメンが四十六歳で亡くなった年にあたる。
 ミナス州で生まれ、『アクアレラ・ミナス』や『カルネ・セッカ・コン・トゥトゥ』といった故郷を歌った曲も残しているが、十八歳からリオ暮らしの彼にミナス人的な堅実さは薄い。後年アメリカで「ミスター・サンバ」の異名をとったボヘミアンだった。
 「セルヴァンテス」では鶏のから揚げと生ビール。好みのウイスキー・ホワイトホースを飲むときは、セントロ区カロージェラス通り6の「ヴィラリーノ」に出かけた。食べるより飲む方に熱心だったが、ここでは焼ハム、ロックフォールチーズと黒パンのサンドイッチをつまんだりした。
 四、五〇年代、カルメンやバローゾと並んで、アメリカの芸能界で抜群の知名度を誇った男にジョルジ・ギンレがいる。
 コパカバーナ海岸に建つ世界屈指の高級ホテル・コパカバーナパラセ創業一族で、ハワード・ヒューズ、アリストテレス・オナシスといったミリオネアーと親交を結び、ハリウッド映画黄金期の女神たちと浮名を流したプレイボーイだ。
 この三人はそれぞれの立場で当時のハリウッド映画やディズニーアニメと深い関係にあった。
 「ブラジルの悩殺的美女」(ブラジリアン・ボンブシェル)と呼ばれたミランダは四六年のアメリカで最も多額の税金を納めた女優だった。彼女とギンレはウオルト・ディズニーを触発し、その作品にゼ・カリオカを登場させた。ゼはオウムのくせにピンガを飲み、サンバを踊る。フェイジョアーダも食べる。ブラジルに来たドナルド・ダックの案内役という設定だった。その映画音楽にはバローゾの曲が使われた。
 三人はいずれも、リオの魅力を世界に広めた功績者であったが、生涯通じて「栄光の道」を歩んだのはバローゾぐらいだろう。
 彼は、死の数日前、病院から友人に電話した。
 もうお終いだよ。俺はそろそろ死ぬだろう。
 どうしてわかるのさ。
 だってさっきから俺の曲ばかりがラジオで流れているじゃないか。
 彼は、「事前追悼」のために自分の曲が盛んに流れていると思っていた。流行していただけの話なのだが――。幸せな勘違いである。そうして、六四年二月の夜、臨終を迎えた。ときはカーニバル。ひいきのチーム、インペーリオ・セラーノが後進していた。
 ギンレは、一族の財政が傾きシンボルのホテルさえ外資チェーンの手に渡った後の晩年、ささやかな年金暮らしを余儀なくされた。
 〇四年三月四日、動脈瘤の手術を拒否していた彼は病院を出、コパカバーナパラセで開かれたパーティーに出席する。
 ミルクシェイクとミルクティーを飲み、鶏肉のストロガノフを食べた。デザートはイチゴのアイスクリームだった。夜はホテルに泊まった。その翌朝四時三十分、眠るように亡くなっている姿を発見された。
 それにしても、ミルクシェイクとアイスクリームが、最後の晩餐とは。
 現経営グループに代わって以来、ホテルのメインレストラン「チプリアニ」では本格派イタリア料理を供し、プール脇のレストラン「ペルグーラ」にはピカーニャ・ブラジレイラやボボ・デ・カマロン、コパカバーナ風ピカジーニョのブラジル料理もある。
 が、彼はそうした現ホテルのウリを一切無視した。前オーナ一族の意地だろうか。あるいはただ、死の直前までアメリカ文化を愛し続けた証しか。
 カルメンの深い苦悩は三九年に始まった。つまり、アメリカでの活動がスタートした年だ。翌四〇年に凱旋帰国し、ウルカのカジノでショーを開いたが、新聞も客もおおむね批判的だった。公演中、「グッド・ナイト、ピープル」と英語であいさつしたこともあり、「ヤンキー化した」と嘲笑された。
 アメリカでは熱狂的に歓迎された〈ブラジルらしい〉歌とパフォーマンスが、肝心の母国で受け入れられないという現実を突きつけられ、心の奥に一生の傷が残った。
 その年彼女は歌った。
 〈アメリカ人みたいになって帰ってきたって言われる/カネの虜になってきたって/……なんでいじめるの?/本当にアメリカ人になっていいの?/……アイ・ラブ・ユーなんて言わない、私はエウ・ティ・アーモって言うわ/好物だって、エビとシュシュを煮込んだシチューよ〉
 世間の反応をよそに政府の広報局に命じてまで、彼女の帰国を盛大に祝った人がいる。ときの大統領ゼツーリオ・ヴァルガスだった。ミランダは、彼の「愛人」とも噂されていた。
 この大統領とセックスシンボル的女優の関係は、ジョン・F・ケネディとマリリン・モンローのそれを思わせる。ヴァルガスは百六十センチ、ミランダは百五十三センチと並んだときのつりあいも取れていた。
 短躯といえば、ギンレも百六十二センチしかなかったが、二十歳のモンローと四七年に知り合い、男女の仲になった。晩年、彼自身がそう証言している。
 ところで、ミランダとモンローの命日は同じだ。きょうである。ここに書き連ねたような昔話を追想しながら「エビとシュシュのシチュー」を食するなら、八月五日よりふさわしい日を私は知らない。
      ◎
 一九一三年創業、セニョール・ドス・パッソス121のレストラン「ペナフィエル」のそれが名高い。電話21・2224・6870。

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