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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(23)

 太一はそんな連中とはかかわりはなかったが、金まわりの早いチシャ作りをはじめたのであった。丈二が食料品店を買ってサンパウロ市にでるまでに、R村で二十年ちかくの歳月がながれている。その間に千恵の両親は亡くなっている。奥地で発病した太一はーどうせながくはもたない身体だからーと、覚悟をきめ義父に女房と子供を託するつもりで、この地にうつってきたのだが、海岸山脈の気候が療養にむいていたのと、まず生活の心労がなくなった故か、心惇昂進はしだいにおさまっていった。千恵の妹の嫁いでいる遠縁に医者がいたので、太一は義父につれられてその人の診察所を訪ねたことがあった。その人は丁寧に診てから、ーとくにわるいところはないですよーとの見立てをした。ー発病した夜は脈がはやくてまんじりもできなかったのですがーと、太一が説明すると、その人はーあなたのは神経からきている心臓病ですなー、と診断をした。ー脈が早くなるようでしたら、これを服用しなさいー、と鎮静剤を処方してくれた。
 太一は千恵に医者の見立てた(神経性心臓病)とは知らさなかった。
「すぐにでもお前が後家になるのではないらしい」
太一は笑って報告すると、千恵はむっとして、どちらにしてもあんたは人に心配かけるので、笑い事ではないとして黙っていた。後日、しだいに夫の病状が千恵にもわかってきた。
「あんたという人はなんでも私に隠すのですね」
太一は妻から嫌味をいわれた。彼はニヤリとしてーお前には喜ぶほどのニュースでもないだろうーと胸の中で思ったが口にはださなかった。
 R村では太一夫婦について、妙な噂がひろまっていた。トマテで当てたという羨望と一風変わった家庭という見方であった。まず奥さんがえらい働き者というのであった。千恵が股ぐらまで泥水につかって仕事をしているというのであった。日雇いのジョンもいるので、まさか女の身でそんなよごれ仕事をするわけはなかったが、誤って千恵が溝にころんで、服を着替えにきたところを、なにかの用件でおとずれた婦人会の役員に見られたのであった。働き者の女房というのはべつに恥ではない、ところがその亭主というのはあまり評判はよくはない。旦那は青白い顔をした無愛想な四十代の男で、客間といっても泥壁の粗末な部屋だが、棚には現代文学全集や哲学書がならんでいたというので、戦後の移住者の婦人会員が話題にして、R村の会長さんが一度太一に会いたいともらしたとか、それは千恵がー松山は病人だからーと断ったので、実現しなかったが、それからは千患さんの旦那は偏屈者ということになった。千恵はなんでも都合のわるいことは太一の故にしたが、
「へんな噂がひろまっていて、恥ずかしくて会にいかれもしない」
「なんだ、亭主は哲学者で女房は下水さらいか、それでも噂になるだけでも、H村からみればえらい出世だぜ」
あんたという人はわたしを便利な道具のように使って、知らぬうちに人から立てられるようになると思うと千恵は腹がたつのであった。
 千恵の死後、太一が妻の遺品を整理していると、写真帖のあいだから一冊のノート・ブックがでてきた。彼女は字が下手というので、かき物はすべて太一に頼んでいた。それについて太一は千恵をいじめた。書いてやるかわりに見返りをと言うわけであった。それは夫婦の間だけのある行為であったが、いやいやながらも字を書くよりはましらしかった。

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