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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(25)

松原綿花農工商バーラ・ド・ジャカレ支店に入荷するカミニョンの列(1977年4月、『綿花王 松原武雄』より)

(『綿花王 松原武雄』より)

その数奇な運命

 マツバラの後、ファゼンダ・ブーグレは、セラフィン・メネゲールという、やはりこの地方の事業家が買い取った。2015年4月現在、ブーグレでカナを栽培、それを原料に、バンデイランテスでエタノール工場を操業している。が、業界は危機下にあり、業者は何処も、経営は最悪事態にある。
 思えば、ブーグレは数奇な運命のファゼンダである。北パラナの名門といわれながら、経営者が次々と代わり、しかも結果は芳しくないのである。筆者は、その数奇さに気づいた時、バルボーザ家のことが気になって、カンバラーの町役場に電話をしてみた。
 受話器をとった職員に、「カンバラーの創立者アントニオ・バルボーザ家に関して訊きたいことがある」と言った処、応答は要領を得なかった。アントニオ・バルボーザの名前すら知らない様子であった。代わって出た別の職員もそうだった。
 住民に訊くと、カンバラーには、バルボーザ家の子孫は誰も住んでいず隣のアンジラーに誰か居ると聞いたことがあるという。バルボーザの子孫が、何処かで大きく事業をやっているといった類いの話も聞かないという。何か、消えてしまったという感じだ。
 そういえば南銀も消えた。

邦人社会

 現在のカンバラーは、人口2万数千のムニシピオである。住民は殆ど町に住んでいる。町の入り口近く、北側に、二つの農産物の加工工場がある(本社は、いずれもサンパウロ市)。
 内、一工場は数年前までは、日系のヨーキ食品社であった。もう一つは今も日系(パンコ社)である。
 ヨーキ食品は1960年、一日本移民により創立された。始めは、サンパウロ市内で、ささやかにポンをつくっていた。やがて種々の加工食品に手を広げ、業界大手に成長した。が、1912年5月、米国のゼネラル・ミールズへの身売りを発表した。時を同じくして経営者一族の一家庭で惨劇が起き、新聞で大きく報道された。
 カンバラーの町には、上野米蔵が営んでいたアルマゼンの建物が今も残っていると聞き、探してみた。出会った日系人に場所を訊くと、親切に案内してくれた。倉庫の様な感じで、表の扉は閉まっていた。壁の色が創業時の明るい感じではなく、黒味がかった青色で汚れていた。
 町の周辺は、穀物やカナの農場が広がっている。ここには戦前、邦人の小さな植民地が四カ所あった。ヴィラ・ジャポネーザ、タクワーラ、北巴、平和という名を冠していた。他に幾つかの非日系の農場で、数家族ずつ日本人が働いていた。
 最初にできた植民地は、ヴィラ・ジャポネーザである。1920年、ブーグレで働いていた日本人7家族が独立して造った。半農奴的生活の苦痛堪えがたく、自営農を目指したという。翌年には21家族に増えた。
 資料類は、これを北パラナに於ける最初の日系植民地としている。ただ、独立を急ぎすぎ、地価がひどく安かったのでよく調べもせず買ってしまい、後で苦労した。霜の多い土地だったのである。
 1932年の調査資料を見ると、カンバラーの邦人は200家族を超しており、職業は殆どが農業となっている。右の四つの小植民地は、それぞれ日本人会を作り、日本語学校(当時の一般的な呼称は日本学校)を運営していた。だから四校あって、それぞれ数十人の生徒がいた。
 資料類では、この程度しか判らない。2015年3月、一住民が補足してくれた。
 「戦後は、1950年頃、日系は120家族に、日本語学校は二校に減っていました。今は、60家族ほどです。植民地は皆消えており、日本語学校も同じです。ただ町には文協があります。日本政府から援助を受けて設立した日本語学校もありましたが、今は閉校しています」
 「そうですか、植民地は皆、消えていますか。日系人の農業も終わったわけですね……」と、筆者が嘆息を洩らすと、その住民は、こう答えた。
 「平和植民地の跡に、94歳になる老人が一人住んでおって、ピンガを造っていますヨ。人を使って。自分はマンダするだけです。ほかに町に住んで農場に通い、営農している人が10人くらい居て、機械化農をしています」 
 この94歳のお爺さんに関する話を聞いていて筆者は瞬間「一人、植民地を守る古老」の勇姿を思い浮かべた。実際は楽しみでやっているようである。
 町に住んで農場に通っているというのは、農村部は治安が悪く、いつ強盗に襲われるか判らないためである。これは何処でも同じだ。
 農業以外の人々は、町で商業その他の仕事に従事している。内、10家族くらいが、植民地だった所に土地を所有していて、賃貸しをしている。日本へ出稼ぎ中の家族から仕送りを受けているケースも多い。日系人の生活は安定している──と右の住民は話していた。
 土地を、エタノール工場のカナ栽培用に貸している場合は、支払いが滞っている筈だが、数年前から大豆の値が良いせいだろうか、町の空気には、活気と明るさが感じられた。
《参考資料》
堀部洋生『ブラジル・コーヒーの歴史』、橋本悟郎『北パラナ発展史』、牛窪襄『上野米蔵伝』、牛窪襄『恢拓六十年 棉作王松原武雄』、日伯協同新聞社編『安瀬盛次小伝』その他。

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