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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(41)

造成中の後宮農場

造成中の後宮農場

 労働法問題、強盗

 1960年代の末以降、この国の何処でも、農場主は労働法問題に苦しめられた。
 弁護士たちが農村労働法を道具に、労務者を唆して雇用主を告訴させた。裁判は、殆ど原告の勝訴となった。被告は過重な負担となる支払いを命じられ、止む無く土地を売って清算した。
 後宮農場には100人以上の労務者がいた。300アルケーレスの土地の内90アルケーレスを売った。他にも支配人に、退職時20アルケーレスを贈与した。これは最初からの約束だった。農場は190アルケーレスに縮小した。
 さらに、これも農業地帯の至る処で起きたことであるが、1980年代、それまで都市部を荒しまわっていた強盗が、侵入、猖獗を極めた。以後も続いた。
 後宮農場は、ファゼンダは無事だったが、市街地にある事務所が襲われた。覆面した二人が押し入ってきた。銃口が震え、慌てていた。プロではなかったのだろう。良威氏は猿轡、目隠しをされ、後ろ手に縛られた。
 全く、次から次への災厄で「憂きことの……」の家訓が無かったら、どうなっていたか──。
 2015年現在、後宮農場は、創業86年になる。日系のファゼンダで、これだけ長続きしている所は少ない。ただ、良威氏は80歳になる。子供は、男は居ない。
 「娘たちに、私が死んだら、農場は売って、お金は分けて、仲良くやってくれ」と話しているという。

 ファミリア宮本の有為転変

 往年、「北パラナの宮本」といえば、隆盛を極めるファミリアとして、広く知られたものである。終戦後のカフェー景気の時代から1970年代にかけてのことだ。
 このファミリアは、一世の宮本兄弟とその二世たちから成っていた。
 兄弟は大分県人で、元々は7人居たが、日本に一人残って、6人が何回かに分けて移住してきた。無論、戦前のことである。
 兄弟は皆、長くノロエステ線方面に居たが、やがてセント・ビンチ・シンコに移った。後宮武雄の入植より10年以上、後のことになる。
 名を上げたのは長男浩、次男斉、末弟邦弘である。それぞれ大規模にカフェーを植え、関連事業を営んだ。
 二世は──戦後のことになるが──斉の息子のミノルがパラナ州選出の下院議員に、邦弘の息子ネルソン氏が、セント・ビンチ・シンコ……イヤ、この頃には正称コルネーリオ・プロコッピオが定着していたが、その市長になった。

 長男・浩

 渋い顔、渋い声、渋い性格の持ち主だったという浩は、1890(明23)年の生れで、21歳の時に妻トメ、弟の斉と移住してきた。斉はまだ13歳だった。
 リベイロン・プレット地方のファゼンダへ配耕され、コロノ生活に入った。が、そこでトメを死なしてしまった。苛酷な労働と貧しさが原因だった。浩は、「金がないばかりに、ロクな手当てもできず……。哀れでならなかった。必ず成功する、と新しい位牌に誓った」と人に語り残している。ほかの移民と何ら変わらぬ暮しであったわけだ。
 コロノ生活5年、やっと独立、ノロエステ線リンスに20アルケーレスの土地を買って入植、カフェーを植えた。が、降霜、蝗害、旱魃……と立て続けに天災に遭い、ウンザリしてプロミッソンに移った。やはり20アルケーレスの土地を入手、カフェーを栽培した。
 が、思う処あって、農場を斉に譲り、町でアルマゼンを開業した。これがトントン拍子で、一挙に成功者にのし上がった。年齢は30代前半であった。

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