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越境する日本文化 ボーイスカウト(4)=第17世界ジャンボリー 閉式の辞はブラジル代表=世界に認められた日系隊

2月14日(金)

 日系ボーイスカウトを語る時、抜いては語れない人物がいる。
 現三指会会長、石井久順である。石井は少年時代からスカウト活動をしており、その兄たちも戦後東京の主な大学ローバー隊(十八歳から二十二歳のスカウトはローバーと呼ばれる)の結成に大きく関わっている。
 アルジャーの訓練所の後、コチア産業組合中央会に入った石井は、井上清一総務部長やスカウト経験者であった井上ゼルバジオ中央会理事長たちの協力を得て、一九六三年一月、コチアボーイスカウト隊を旗揚げする。
 後も各地で説明会を開くなどボーイスカウト普及活動を行い、北海道協会、西本願寺のボーイスカウト隊を含む計三十以上の日系ボーイスカウト隊の設立に尽力している。
 その日系ボーイスカウトの発展につくしてきた石井がスカウトたちを引率して祖国日本へ帰る機会を迎えた。
 一九七一年日本の静岡県朝霧高原で開かれた第十三回世界ジャンボリーへの参加である。その時石井はブラジル派遣団副団長として参加している。
 八十七カ国から二万四千人のスカウトが参加したこのジャンボリーの閉会式ではブラジルにおける日系隊の発展ぶりを知っていた世界スカウト事務局が閉式の辞をブラジルのスカウトに託した。 
 石井は四十六人のスカウトの中から、最年少で非日系のアンドレ・フリオリ(コチア隊)を推薦した。
 日系ボーイスカウト隊のために尽くしてきた石井だったが、ボーイスカウト移民としてブラジルに世話になったという思いが強かったのが非日系のアンドレを選んだ大きな理由であった。
 閉式の辞はポルトガル語と日本語によって行われた。小副川ルイスが書いたポルトガル語の台本を石井が訳した。アンドレはその任務に誇りを感じ、三晩かけて日本語の練習を続け、石井は常に付き添った。
八月十日午後九時二十分、石井が来伯した時に生まれたアンドレが今、祖国日本の富士の麓で二万四千人のボーイスカウトを代表して閉式の辞を述べる。
 石井の胸に熱いものが去来した。
 水を打ったような静寂の中、輝いた四万八千の瞳は世界中のスカウトの友情を表現した大灯火に注がれている。富士山頂の万年雪が暗闇の中に美しく浮かびあがる。
 司会の声が静まり返った会場に響き渡った。
 「別れの言葉は、参加スカウト全員を代表して、日本から一番遠い国ブラジルから来た十四歳のアンドレ・フレオリ君であります」。
 石井はマイクの前に立ったアンドレの脇にしゃがみ込み、台本を片手に「落ち着け。ゆっくり行け」と何度も繰り返した。アンドレは息を吸い込んだー。
「各国のボーイスカウト、及びスカウトがこの大会に参加したことを大変嬉しく思い、喜んでいます。世界中の兄弟スカウトに呼びかけ、知らせてスカウト運動が発展することを祈ります。特に日本のスカウトには心から感謝をしています。また会いましょう。備えよ常に!さようなら!」 緊張の余りか、多少早口ながらもその堂々としたスピーチに会場からは万雷の拍手が巻き起こった。
 石井は思った。これでやっとボーイスカウト移民の草鞋を脱ぐことが出来るー。
 この後石井は十数年間ボーイスカウト活動から退いている。  ー敬称略―
    ◇
 記者の非礼な頼みで石井はそのジャンボリーの記録レコードを自宅倉庫から一日かけて掘り起こし、埃を払い、リオ・グランデ・ド・スールの親戚から取り寄せた蓄音機とも呼べそうなプレイヤーに
載せた。数十年振りに蘇る、その時の感動、熱気、興奮ー。石井が流した涙が全てを物語った。
(堀江剛史記者)

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