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越境する日本文化 ボーイスカウト(1)=戦後、日系二世たちの方向づけ=勝ち負け抗争がきっかけ

2月11日(火)

ーあめりか丸からー  ボーイスカウト第一號として着伯した内田克明、大和田誠一郎の両君と出迎えの細江静雄氏―。(一九五六年二月二十一日のパウリスタ新聞・写真)
 内田、和田両氏を筆頭に五六年から六〇年までに『ボーイスカウト移民』として来伯した青年は二十九人。
 これらの青年の呼び寄せ人となったのは援護協会、サンタクルス病院の礎を作った人たちの一人、道庵先生こと細江静男である。
 細江といえば、カラムルー隊(ブラジルボーイスカウト連盟サンパウロ第二十六団)の創始者として有名である。
 この日系ボーイスカウト隊はサンパウロ市アクリマソンに本部を置き、隊員数約三百五十人を数えるブラジル最大のボーイスカウト隊である。
ーボーイスカウト移民と
日系ボーイスカウト―
 なぜ、アマゾンのシュバイツァーと呼ばれた細江が世界最大の青少年教育運動に携わることになったのかは、戦後の日系社会に目を向けねばならない。
  ◇
 戦後、祖国の勝敗を巡って日系社会を混乱させた勝ち負けの問題は日系社会に大きな禍根を残し、それまでの心の支えであった日本の敗北は二世にも大きな動揺を与えた。ブラジルも日本も祖国と思えない二世の懊悩に細江もまた苦しんでいた。
 当時のコロニアの有識者を中心に結成されていた大和会(一九四六年発足、認識派団体と呼ばれていた)の会合で会員たちは日系社会の行く末を案じ、二世たちの将来を憂えていた。
 そんな時、当時のサンパウロ新聞社社主水本光任が当時の日本ボーイスカウト連盟総長三島通陽をサンパウロに招いた。
 三島はオーストリアで開かれた第七回世界ジャンボリー(語源は米語の俗語でどんちゃん騒ぎの意。キャンプを通し、野外技能や友情などを培うボーイスカウトの催しで四年に一度、世界大会が開かれる)に参加し、水本の誘いでサンパウロに立ち寄った。
 その折、三島はボーイスカウト運動について各地で講演を行っている。細江はこの講演を傍聴し、痛く感銘を受けた。早速、大和会にも招き、詳しくその理念や活動内容についての説明を求めたのは想像に難くない。
 「これからの二世、三世たちのため、日系社会のためにこの運動を普及するべきだ」。 
 細江は日系子弟に方向を示唆できる一つの光と出会った。それは当時世界中に数百万のメンバーを擁したボーイスカウト運動だった。―敬称略―

 ボーイスカウト運動は一九〇七年に英国のロード・ベーデン・パウエル卿によって始められた青少年運動。『そなえよ常に』をモットーに野外活動と奉仕活動などを通し、役立つ社会人を育成することを目的とする。
 日本では一九二二年に少年団日本連盟が発足したものの、戦時中は解散。戦後はGHQ関係者にボーイスカウト出身者がいたことなども手伝って占領下にあった一九五十年には国際事務局に登録し、国際復帰を果たしている。
    (堀江剛史記者)

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