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何のための県人会か=宮城総会が中止=最終回=「コロニア全体の問題」=問われる会員の参加意識

1月31日(土)

 どこの県人会も人材不足の悩みを抱えている。ある役員はぼやく。「会長になれる能力の人はいても、仕事が忙しくて時間がさけなかったりで、実際、なかなか会長を引き受けてくれる人はいないんだよ」。
 県連顧問の網野弥太郎さんは、こう考える。
 「確かに、どこの県人会でも人材不足の悩みを抱えている。本当は、あの人にやってもらいたいが、遠くから来ているとか、本業が忙しいとか。でも、本当にやってもらい人には、みんなで頭を下げてお願いして、就任してもらうことが大事じゃないですかね。そして、頼んだからには、みんなで支える。それでこそ、みんなの県人会じゃないですか」
 続けて、「なにも問題が起きたからって、会長だけが悪いんじゃないと思いますね。あの会長に任せておけばいい、ということがマイナス効果を生むこともある。面倒くさいから任せておこう、という会員の無責任さが会運営の惰性を生むんじゃないですかね。結局、会員一人一人が目覚めるしかないのじゃないだろうか」と、会員全体の自覚を問う。
 騒動と手打ちが繰り返される、長い歴史をもつ〃お家騒動〃の背景には、それを放っておく会員の惰性があると、網野さんは指摘する。
 県人あっての県人会だ。会長あっての県人会ではないだろう。県人に選ばれ、運営を任された人が会長であり、民意を尊重し、会のために尽くすのが本来の姿。仮に、県人不在で、執行部が思うがままに牛耳れる会が存在するのであれば、本末転倒といえよう。でも、その本来の姿を保つには、健全なる県人の責任ある態度が常に前提となる。
 営利団体でなく、親睦団体だからこそ「最良の人選」はありえない。常に、その時の現実的な選択で役員は選ばれる。にも関わらず、県人会会長になれば、県連会長や百周年祭典協会副理事長という、日本側からも深い敬意を払われ、大きな資金の流れを管理する〃権力の座〃への道が開ける。もちろん、叙勲という栄誉にあずかる可能性も出てくる。
 親善団体と〃権力の座〃の間に横たわる溝には、いろいろな思惑、矛盾も詰まっているようだ。
 二月末に予定される宮城県人会の定期総会で、本当の意味で試されるのは、中沢会長の信任ではなく、県人の会に対する〃想いの強さ〃ではないだろうか。
 総会シーズンまっただなかの現在。「これは、一県人会だけの問題じゃない。コロニア全体にいえることじゃないですかね」というある県連役員の言葉が耳に残った。
(おわり、深沢正雪記者)

 

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