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真珠湾攻撃の年に渡航=戦前最後から2番目の船=『あらびや丸』同航者たち=「友人には召集令状自分はブラジルに」

5月19日(水)

 毎年五月の第三日曜日に行なわれている「あらびや丸同船者会」が、今年も例年どおり第三日曜日の十六日にガルボン・ブエノ街の美松食堂で催された。十二人の参加者達は、当時の思い出や最近の様子などについて思い思いに話した。
 初めに全員が起立し先亡者に約一分間の黙祷を捧げた後、世話役の三藤悟人さんが「高齢にも関わらず寒い中集まっていただいて世話人としてうれしいです。こじんまりとした同船会でも六十年間定期的に行なっており、この三十年は毎年行なっています。まさに継続は力なり」と挨拶した。
 あらびや丸が到着したのは太平洋戦争勃発直前。パナマ運河を通過する際「カメラや望遠鏡などが米軍によって全て集められ、封印された。兵隊が運河の両岸や船中を監視していた」という。「兵隊に行くから旅券はいらない、と父さんに話した」「召集令状が届いてみんな戦争に行ったが自分はブラジルに来た」といった話も聞かれた。
 「家で娘に当時の苦労話を話すと、そんなんばっか言わんとってって叱られるんですわ」との言葉に「記憶に残るのは苦労した話なんだよねぇ」と苦笑いしたかと思えば「(家財道具として)タンスまで持ってきた」と大笑いする場面も。
 参加者は年々減っているが「当時からのよしみを継続」させるべく、参加者達は「また来年も五月の第三日曜日に会いましょう」を合い言葉にそれぞれの帰途についた。
 あらびや丸は一九四一年三月二十五日に神戸を出発。名古屋、横浜、ロス・アンジェルス、パナマに寄港し五月十五日にサントスに着いた。日本人四百八十七名が乗船。同年十二月八日のハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦した。

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