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人生あきらめなかった=阪神大震災で半身不随=3世・前田さんに聞く=「障害者仲間を励ましたい」=車椅子でテニス、演劇も

5月20日(木)

 阪神大震災で半身不随になった障害を乗り越えて、演劇に挑戦する日系人がいる―。前田シジネイ晃男さん(二八、三世)は、震災で崩落した建物に押し潰されて脊髄損傷となり、日本で手術・リハビリをした後、一九九七年に帰伯した。現在、車椅子ながらコンピュータープログラマーとして活躍しつつ、テニスや演劇に励んでいる。ファベーラの障害者への講演も行なうなど、「自信を失っている人、困っている人を助けたい」と、その情熱は衰えを知らないようだ。

 一九九五年一月十七日午前五時四十六分、阪神・淡路一帯を大地震が襲った。兵庫県尼崎市内のパイプ製造工場で働いていた前田さんは、毎週末、近隣の芦屋市に住む日系人の恋人のアパートに通っていた。その時も、朝の用足しを終え、トイレを出て三、四歩歩いたところで、ドーンという大きな音がした。気がつくと、トイレの和式便器に後ろ向きに座る形に飛ばされていた。
 両側から崩れる壁にはさまれ、天井も崩落し、前田さんの頭を直撃した。「頭から腰にショックが走りました。しばらくして、手を後ろに回すと、背骨がはれているので、大怪我したと思いました」。引き続く余震の度に、天井は圧しかかってきた。最初は座る姿勢だったが、最後は腿に胸が押し付けられ、感覚は麻痺した。
 「もうダメだ。終わりだなと思いました。薄いパジャマ一枚だったので、寒くて手が痙攣していました」。六時間後に、心配して駆けつけた日本人の友人らに助け出され、病院へ担ぎ込まれた。手術は大阪市立大学病院で行ない、そのまま一年間リハビリもした。
 入院時、看護婦や医師に日本語を教えてもらった。特にある看護婦から「日本語で日記を書いたら」と奨められ、書き始めた。「その看護婦さんが毎日、校正をしてくれたおかげで上達した」と回想する。前田さんの記憶の中では、日本の病院での献身的な看護が大きな比重を占める。突然襲った不幸を超える何かを与えてくれたようだ。
 その後、芦屋市の県立総合リハビリセンターに転院し、そこでバスケットやテニスなどのスポーツを始めた。「一番、思い出深かったのは明石マラソンに参加した時です」。ハーフマラソン(約二十一キロ)だったが、途中で何度も挫けそうになった。「沿道から聞こえる日本人女性の声援を聞いて、ここで辞めたら一生後悔すると思い、最後の一人になっても走りぬこうって、決心しました」。
 九七年十一月にブラジルへ帰国。「最初は戻ってきて失敗したと思った。空港からの帰り道、信号で車が止まったら、車椅子の人が飴を売りにきたんです。僕もこんな仕事になってしまったら、と悲しくなりました。日本では福祉が進んでいて、車椅子でも一人でどこでも行けますが、ブラジルでは車がないと無理。すごく違います」。
 最初は電話対応センターで仕事、その後、パソコンの講座に通って勉強し、大学の情報処理科で知識を深め、プログラマーとして就職し、現在も朝九時から夜六時まで働く。手だけで運転できるように改造した自家用車で通勤する。
 仲間とNGO団体を作り、貧困地区での障害者啓発の講演活動もした。「日本でマラソンをやった経験から、スポーツが障害者の自尊心向上や自己啓発に役立つと思います。少しでもみんなの役に立てたらと思って」と説明する。
 昨年八月からは友人に誘われて演劇の役者としても活躍している。
 その劇団の公演が二十一日(金)と、三十日(日)にサンパウロ市のテアトロ・ジアス・ゴメス劇場で行われる。演目は、夜をテーマにしたちょっとユーモラスな前衛ミュージカル「Noturno」を車椅子役者用に変えたもの。住所はRua Domingo de Morais, 348 -V. Marianaで、問い合わせは11・5575・7472。
 地震の前後で日本に対する印象は変ったか、との問いに、「地震は日本のせいじゃない。むしろ印象はよくなりました。唯一、自分が悲しいのは、障害基礎年金がブラジルではもらえないこと。知人は日本で交通事故にあって、もらっている。やっぱり、おかしいと思う」と回答した。
 両親や兄弟は現在も三重県にデカセギ中で、サンパウロ市自宅には妹と二人暮し。八月から新しい演劇作品の練習に入るという前田さん。「他の州でも公演したいです。そして、いつの日か日本でも」と目を輝かせた。

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