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ドラセーナの”お父さん”の死 熱い血の人、藤沢さん 児童絵画の沢田さんと一緒に 巡回診療、日本語学校再開、在外選挙にも奔走

6月30日(水)

  汎パウリスタ連合会元会長で、本紙ドラセーナの通信員として、親しまれた藤沢国男さんが十九日、交通事故後の経過が悪く、プレジデンテ・プルデンテ市内の病院で死去した。七十一歳だった。生前は、中断していた援協巡回診療や文協日本語学校の再開に奔走。戦後移民でありながら、熱血漢ぶりは戦前移住者のようだった。私費を投じて、文協内の庭園に池を造成。二十七日の初七日の法要後、竣工式があり、関係者は藤沢さんの冥福を祈った。
 「言い出したら、最後までやりとげないと気が済まない人だった。お父さんのような存在でした」。千野豊子ドラセーナ文協書記(日本語学校担当、58)は、故人を忍ぶ。
 八〇年代後半から九〇年代初めにかけて、教員の不足で文協の日本語学校が一時、閉鎖に追い込まれた。教育熱心だった藤沢さんが、運営の再開に向けて運動。サンパウロのだるま塾に掛け合い、教師の派遣を取り付けた。
 日本語教師の橿本洋子さん(プレジデンテ・プルデンテ市在住)は「コロニアに何にでも、惜しみなく協力する人でした」。
 父兄会会長や汎パウリスタ地区の日本語部長などを歴任。〇〇年四月から、ブラジル日本語センター評議員を務めていた。
 丹羽義和同センター事務局長は「ジーパンとT─シャツ姿で、教壇に立った教師をしかり飛ばしたことがあると聞いています」と語り、昔気質だった人柄のようだ。
 援協巡回診療も、中断していた。藤沢さんの熱意で、復活。日系人による日本語での診察を受けれるようになった。根塚弘巡回診療班班長は「パラナ川沿いで、日系人男性を保護したことがあります。身元の確認のため、走り回ってくださいました。ずっと、戦前移住者の人とばかり思っていた」と懐かしむ。
 最後の仕事になったのは、文協内での池の造成。五千レアルをかけて、二重橋をかけるなど、景観を整えた。一時、退院した後、仕上がり具合を確認したという。
 藤沢さんはまた、〇〇年、献身的に在外選挙の選挙人登録の世話役をした。
 一九五〇年に十七歳で移住。七〇年ごろ、ドラセーナに移り、農機具の販売をしていた。
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 汎パウリスタ地区の絵画教室が五月十六日に、ジュンケイロポリスで行われた。藤沢さんは早朝、プレジデンテ・プルデンテ市に講師の沢田丈夫さんを自動車で迎えにいき、二人で会場に向かった。
 途中、午前七時三十分ごろアルフレッド・マルコンデスからサントエスペジット方面に三十九のキロ地点で、反対車線側の路肩を突き破って、約十五メートル下まで落ちた。
 二人が定刻になっても姿を見せないので、事故に遭ったのではないかと懸念。警察当局に通報の上、幹線道路などを捜索した。しかし、落下地点は道路上からは見えにくい場所で、発見されたのは事故発生から約十二時間後のことだった。沢田さんには特に、外傷が目立たなかったが、二日後の同月十八日に、様態が急変して死去した。藤沢は一旦退院、自宅に戻った。肺や腸に穴が開いたおり二日後に再度、入院、闘病生活をしていた。

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