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第2次世界大戦=日系米兵2つの戦い(2)=志願兵による歩兵連隊編成 1500人募集に応募1万余

7月14日(水)

 ■3.日系人たちの誇り■
 第百大隊が前線に出る望みもないまま、訓練に明け暮れていた一九四二年十月頃、陸軍の上層部では日系の志願兵による部隊編成を認めるかどうかの議論が進められていた。日系市民協会からは、志願兵部隊編成の請願が出されていた。
 この頃、本土の日系人十二万人が収容所に入れられていた。特にアメリカ生まれの二世たちは、米国籍を持っていながら、日本人を親に持つという理由だけで、強制収容されていたのだ。多くの日系青年たちは、前線に立つことで祖国への忠誠を証明したいと思っていた。
 陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将は、「人種のいかんを理由にこれ以上アメリカ市民権を圧することは無謀というものである。強制収容でその限界までやったのではないか。もう沢山だ。」とのメモを残している。
 また日本軍が、この戦争を人種的偏見から出た人種戦争である、とのプロパガンダを流しているのに対抗して、日系人が米軍として戦う事は有効なカウンター・プロパガンダとなる、との考えもあった。
 こうした考えから、一九四三年二月一日、ルーズベルト大統領が日系志願兵による第四四二歩兵連隊の編成を発表した。当初、ハワイ諸島での募集人員は千五百人だったが、一万人を越える日系青年が応募したため、すぐに募集枠を二千六百人に拡大した。「一旦嫁したら夫の家こそわが家」という日本人の伝統的精神からも、アメリカのために戦うことにためらいはなかった。
 三月二十八日、ハワイ全島から集まった二千六百八十六名の志願兵のための壮行会がホノルルのイオラニ宮殿前で盛大に行われた。当日の地元紙はこう報じた。
 イオラニ宮殿の周りを埋めた一万五千~七千ともいわれるかつて見たこともない人の数に驚いているだけではない。最も重要なのは見送りの家族や友に見られる明かな誇り。若者たちが国と連合国のために戦う愛国的役目を託されたことへの誇りである。

■4.「ジョー高田君戦死す」■
 一九四三年九月二十二日、第百大隊はイタリア南部のサレルノに上陸した。一年と十カ月以上も待たされてのようやくの実戦配備であった。彼らはサレルノに上陸した十九万の連合軍将兵のごく一部であったが、従軍記者たちの注目を集め、ニューヨーク・タイムズ紙は「日系米兵―イタリア戦でナチと戦闘」と報道した。
 九月二十九日、雨の中を北上しつつあった第百大隊は最初の敵に遭遇した。突如、敵の機関銃掃射を受けたのである。さらに砲弾も降り注いだ。
 自分の身の危険を全く顧みることなく、タカタ軍曹は小隊の先頭に立ち、敵の側面へと導いていった。彼は機関銃手の位置を確かめんと故意に身をさらし、敵の砲撃で致命傷を負った。傷ついた後、数分しか命がなかったにもかかわらず、タカタ軍曹は副小隊長に敵の位置を知らせんとした。
 日系米兵で最初に戦死し、殊勲十字章を得たジョー・タカタの感状の一節である。「ジョー高田君戦死す。元朝日野球団のスター」と、ハワイの日本語新聞は見出しを掲げた。高田は二十四歳、地元のアマチュア野球のスター選手として、日系社会では有名であった。妻のフローレンスとの新婚生活が二カ月に満たないうちに、タカタは出征した。
 「ジョーは国のために死にました」と若き未亡人は記者に語った。父親はこの未亡人を連れて役所を訪れ、毅然とした誇りの表情をたたえて、白人の役人に香典を「赤十字に」と寄付した。以後も日系兵の犠牲が出るたびに遺族がこの光景を繰り返すようになった。(つづく)

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