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「グヮポレ移民」50年=苦闘ののち、ある「今」(5)=〃生き証人〃減るなかで=移民史編纂を急いだ

8月5日(木)

  窓ガラスの一部は割れ、掃除をしていないのか内部もかなり散らかっていた。日本人会館(二十周年記念事業)はどうやら利用されていないようだ。不動産を巡るトラブルもあるらしい。
 〃里帰り〃をした入植者たちは七月二十三日、コロニアを訪れた。会館の姿をみて、時の流れを感じとったことだろう。有刺鉄線の間をくぐって敷地に入るというおまけもついた。
 「昔はここで、よく野球をしたもんです」と一人が指を差した。その先にあったのは、グラウンドではなくて雑草が生えているだけのカンポだった。
 記念碑に記された開拓者名簿(家長夫妻のみ)をみると、生存者のほうが少ない。入植者自身が「コロニアは衰退期」と認めざるを得ないのが現実だ。
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 八〇年代後半。移民史編纂に向けて、機運が盛り上がってきた。入植時の家長が死亡するなどして、〃生き証人〃が減ってきたからだ。
 旗手になったのは、岡部隆之さん(故人、熊本県出身)。十六歳で移住。終生耕地に留まり、コロニアの移り変わりを見つめてきた一人でもある。
 「煙草も酒もやらず、几帳面な性格でした」。岡部さんを知る人は、異口同音に人柄の良さを強調する。各家庭を訪問しては資料を集め、一人で記事を書いていたそうだ。
 貴重な資料が国立国会図書館に寄贈されていた。内容を書き写すため、日本で働きながら図書館に通う心積もりもあった。だが、病気のため叶わなかったという。作業は大幅に遅れた。
 岡部さんは危機感を募らせて言った。「移民史をつくらないといかんと思っているのですが、なかなかなのですよ」(中武幹雄著『奥アマゾンの日系人』)
 元日系社会青年ボランティアの中野敦彦さん(九九年~二〇〇二年、西部アマゾン日伯協会団体事務)が編集に協力したことで弾みがつき、五十周年を一年後に控えた二〇〇三年三月に刊行にこぎつけた。岡部さんは完成をみることなく、〇〇年十月に亡くなった。
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 「自治会(文協)の会員に、なってもらえないだろうか」
 九〇年ごろのこと。市内で雑貨商を営む栗山平四郎さん(67、東京都出身)のもとに、岡部さんが訪ねてきた。会を維持運営していくためには会員の獲得が不可欠だということで、協力を求めてきたのだった。
 栗山さんは十七歳のとき、家族八人で渡伯した。父信二さん(故人)が数年後に、組合を脱退。以後、一家は日本人との付き合いがほとんどなくなってしまった。「東京で暮らしていましたから、組織に入る必要を感じていなかったんじゃないでしょうか」
 植民地の運営などについてほかの家長と意見が合わなかったようだと、長兄の安敬さん(70)=サンパウロ市=は明かす。
 平四郎さんは七三年に離農。商業の道を選んだ。岡部さんは、親しくしてきた数少ない日本人の一人だった。友人のたっての頼みに、三十数年ぶりに会に戻ることを決心。移民史編纂に携わっていった。入植当時に綴った父の日記が見つかるなど、幸運も多かったという。
 「五十年、ポルトベーリョで生きてきました。植民地では当初、電気もガスもない生活で病人が出ると大変でした。多くの人のおかげで、記録を残すことが出来ました」
 九三年に妻を亡くして寡夫暮らしだった平四郎さん。岡部さんの遺志を継いで編集委員長に就き、サンパウロを訪れる機会も増えた。後妻の輝子さん(二世、61)に出会い、昨年十一月に結婚。今、新婚ほやほやだ。
(つづく、古杉征己記者)

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