ホーム | 日系社会ニュース | 帯広市にあった自動車組立工場の写真=移住した岡崎さんへの形見=母親が「故郷忘れるな」と=帯広百年記念館から寄贈依頼=「それは貴重な史料です」

帯広市にあった自動車組立工場の写真=移住した岡崎さんへの形見=母親が「故郷忘れるな」と=帯広百年記念館から寄贈依頼=「それは貴重な史料です」

8月27日(金)

 帯広市に戦前あった自動車組み立て工場──。日本語学校を経営する岡崎完さん(北海道出身、80)=サント・アンドレ市=が、北海道開拓時代を偲ばせる貴重な写真を所持している。工場の経営者は、父武さん(故人)。ブラジルに移住した息子に渡してほしいと言って、形見に残したもの。五年ほど前に里帰りし、妹タツコさん(札幌市在住)から受け取った。帯広百年記念館から、寄贈の依頼が入っている。
 岡崎家は仙台・伊達藩に仕えた重臣。曾祖父士兵衛晴久さんが明治維新後、キリスト教徒になり北海道に移り住んだ。
 昭和の一桁代、一家は釧路近くの白糠(しらぬか)、別保(べっぽ)に炭鉱を所有。手広く事業を展開していた。昭和九年(一九三四年)ごろ、自動車組み立て工場を始めたという。
 今のJR帯広駅から歩いて十分ほどの距離に、社屋を構えた。従業員は約百人。主にトラックをつくった。岡崎さんは「まだ子供のころだったので記憶は曖昧なんですが、工場内で遊んでいると、煩がられました」と懐かしむ。
 当時はまだ、交通網が発達しているわけではなかったので、トラックを組み立てても札幌など都会への輸送が大変だった。約十年間営業した後、採算が合わないと判断。工場を閉鎖したそうだ。
 母雪さんは二十年ほど前に、死去した。家族の幸せなひとときが、凝縮されていたのだろう。建物の全景や従業員らとの記念写真を大切に保存していた。
 岡崎さんはボリビアを経て、六〇年代初めにブラジルに移住した。両親の死に目にあうことは出来なかった。
 形見の写真は、南米に羽ばたいていったまま里帰りをしてこない息子へのメッセージのように思える。「帯広のことをいつまでも、心に留めておいて欲しかったんじゃないでしょうか」と岡崎さん。
 五年ほど前、約四十年ぶりに帰国。道東方面にも足を伸ばした。「根室線が高架になっていて、もちろん工場の面影は何も残っていませんでした」。

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