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山下援協事務局長定年退職へ=勤続35年、現役最古参

12月11日(土)

 サンパウロ日伯援護協会(和井武一会長)の山下忠男事務局長(70、京都府出身)が今年いっぱいで、定年退職する。勤続三十五年で、現役では最古参職員。一九九七年六月から現職で、陰になり日向になりながら理事会と現場の調整に奔走した。
 「ほんの一時凌ぎのつもり」。実は、援協にはそんな軽い気持ちで入った。一九六〇年代後半、サンパウロ市内で食料品店を経営していたが、倒産。とりあえず家族が食っていくため、仕事を探した。数年後に子供が義務教育を終えれば、繊維業の工場を開けるチャンスをうかがうはずだった。
 それが、一九七一年に旧援協厚生ホーム(リベルダーデ区ピラピチングイ街)の主任を任せられたことで、気持ちが一変した。「建前は老人ホームだったけど、精神障害者や困窮者が入居。実質は救貧施設だった。気苦労が多かったけど、福祉がやりがいのある仕事だと思った」と山下事務局長。転職希望を撤回、援協に骨を埋める覚悟を決めた。
 サントス厚生ホーム主任(ホーム長)、保健衛生部長などその後、数々の役職に就いた。最も思い出深い仕事は、日系コロニアや日本から総額十億円以上の寄付を得て日伯友好病院をつくったこと。建設現場で設計事務所、施工会社、医師らの調整役を担い、院長補佐や病院事務長も務めた。
 「開院後三年は、赤字覚悟での運営でした。二年目の終わりごろからトントンになり皆で喜びました」
 その友好病院をはじめ援協傘下の事業所で現在、世代交代などが進行。コロニアという礎石の上に援協が立っているという意識が、職員間で薄れつつあることが気がかりだ。
 「中沢源一郎元会長や竹中正元会長を知らない職員がいることも事実」と自己批判ともとれる発言も。
 本来なら昨年が定年の年だった。組織全体のたっての頼みで、一年間だけよけい残った。その分、充足感があるのだろう。感慨深く天を見上げてつぶやく。
 「援協に入った時、上司には日本で福祉を専攻してきた方が結構いました。自分は高校中退で学歴なんて誇れません。ここまでやってこられたのが、不思議なくらいです」
 渡伯(五三年)当時は、色白で体格も細かったという。福祉の世界でもまれ、キャリアのない白皙の美青年は、千人以上の職員を束ねるイスにどっしりと腰を下ろす存在になった。その変貌振りに驚いているのは、おそらく本人自身だろう。
 定年後はディアデマ区の自宅で野菜作りなどを楽しむ予定。後任には、具志堅茂信事務局次長が就く。

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