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台湾コロニア〝周縁〟から〝中心〟を目指して=連載(3)=自由が欲しかった」=移住動機はすべて匿名で語る

4月7日(木)

 「これでようやく、移民が集える場所が完成しました。結婚式やフェスタで、皆を呼んで楽しみたい」。張永西客家プラザ主任委員長は、長年の悲願が達成したことを喜ぶ。
 母国の文化普及は、とりあえずクルトゥーラ・タイペイに一任。自身は、コロニアを盛り上げていくことに徹する考えだ。
 知名度アップのため、今年九月まで地階・一階のサロンは全て、賃貸料が正規料金の半額。例えば、地階の大サロン(千二百人収容可能)は平日二千レアル(四千レアル)、週末三千レアル(六千レアル)となっている。
 張主任委員長は「民族として団結しなければ、こんな立派なものは出来なかった」と強調。民族へのこだわりを見せる。移住者が出資する形で、会館(地下・地階・一階部分)を建築。〃株〃を代々引き継がせることで、半永久的に存続させることが出来るという。
 この思想・精神を理解するには、台湾の現代史や客家の原像などを探る必要がありそうだ。
 「ただ、自由が欲しかっただけ」。サンパウロ市内でポルキロ食堂を経営する男性(客家)は、声を絞り出した。移住の動機を尋ねた時だ。表情は険しさを増し、「政府は人権や権利を無視。親戚は、財産を全て没収された」と言葉を続けた。
 国民党は戦後、国共内戦で台湾に敗走。党国体制と呼ばれる独裁政治を敷いた。反体制派には厳しい弾圧を加え、李登輝総統時代の政府発表によると、犠牲者数は一万八千人~二万八千人。自由を手に入れるには、海外移住しかなかった。
 十九世紀末、清の時代に苦力として渡ったのが、ブラジル移住の嚆矢。日本統治下にも、渡伯者がいた。本格化するのは、一九六〇年代からだ。しかし海外渡航は制限されており、国外に容易に出られなかった。
 ある女性(客家、75)は「家族で一旦日本に行き、農業移民としてブラジルに来た」。別の男性(客家、83)は「戦後必死に電気系の技術を身に付け、海外渡航に必要な条件をクリアした」と明かす。
 いずれも恐怖体験の後遺症からか、取材は全て匿名。政治の話は未だ、タブーだ。ブラジルに密入国するため、闇ブローカーに家族一人につき六千ドルを支払った人もいると聞いた。
 このように苦労して入ってきたブラジルだが、移住後の道のりは平坦ではなかった。「資金なんて、ほとんどなかったんですから」と張主任委員長。露天商から、身を立てた人も少なくないという。
 客家は、もともと黄河中下流域に居住。文化レベルも高かった。外敵の侵入などで四世紀ごろから南下を繰り返し、江西省や福建省などの山岳地帯に入った。その後、清の時代に台湾への移住が奨励された。
 勉学に励んで官途に就くという伝統があり、教育を重視した。山岳地帯は不毛だったため、この傾向に拍車がかかった。ブラジルの移民も、倹約勤労して子弟を学校に入れた。張主任委員長は「日系人同様、二世は医者や弁護士になって活躍している」と胸を張る。
 今はちょうど、子育てが終わり、生活に余裕が生まれてきたところだ。「これまで、皆忙しくて会う機会が無かった」。移民一世にとって、最も利便性の高い場所がリベルダーデ区だ。
 「日本人が文協を持ち、ブラジル社会に既に東洋人街として知られている。我々も会館をつくることで、必ずこの地区の生活・文化レベルの向上に貢献できるはずだ」。
 自信に溢れる張主任委員長。その表情は、〃主役〃の顔だ。
(おわり、古杉征己記者)

■台湾コロニア=〃周縁〃から〃中心〃を目指して=連載(1)=「台湾人要出頭天」=─台湾人として胸を張る─

■台湾コロニア=〝周縁〟から〝中心〟を目指して=連載(2)=コチア市に如来寺=客家プラザ内にも寺〃入居〃

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