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海外日系文芸祭JICA横浜所長賞=人生変えた15歳の一首=坂井純さん=60歳で生きる目的つかむ

2005年9月7日(水)

―ブロークンの英語と手真似で生きてきた吾にも小さき移民史があり―
 第二回海外日系文芸祭で、「JICA横浜所長賞」を獲得したノースハリウッド在住の坂井純さん(69)=静岡県出身。短歌を始めたきっかけは、一九九九年の宮中歌会始に入選した中学生の一首だった。
 お題は「青」。
〈新しき羽を反らして息づける飛翔間近の青スジアゲハ〉。
 佐賀県の中尾裕彰さん(当時、15)の作品だ。
 その当時、坂井さんは精神的に落ち込んでいた。京都の同志社大学を出て日本の商社に勤め、一九七九年に渡米してからは、レストランのマネジャーを務めたり、食品関係の会社に勤めたり、寿司のテークアウトの店をしたり。日本で造園も学び、米国で造園業も考えていたが、全く違う道を歩んできた。「さまざまなことに挑戦したが、成果がなかったという挫折感。ただがむしゃらに働いてきただけ。自分の人生とはなんだったのか、そんな思いでした」。六十歳という年齢的なものもあった。
 青スジアゲハの一首は、その鮮明な生命力で坂井さんの心をとらえた。「それと、自分と四十五歳も違う若い少年がこんな立派な歌を詠んでいるということがショックでした。『自分もひとつ、死ぬまでに宮中歌会に入る歌を作ってみたい』。心の深いところでそう思ったんです」
 生きる目的をつかんだように、天理教の新聞「天理時報」の「時報歌壇」への投稿が始まる。「天理時報」は妻の登子(たかこ)さんが布教の仕事をしている関係で購読していた。
 「時報歌壇」は週に一回の掲載。毎週投稿し、ほとんど毎週掲載された。「海外からの歌ということで珍しいこともあり、添削して載せてくれたんだと思います」。その添削をみながら自学自習した。「直されることが一番の指導でした」
 二年ほど前から、奈良市の「青樫(あおがし)」に作品を寄せ始めた。ちょうど登子さんが乳がんをわずらい、その治療で大変だったころだ。坂井さんにもつらい時間だった。「連歌『告知』十首を載せてくれました。その後、少し良くなってからは『湯に流す』をやはり十首」
 こうして着実に歌人としての地歩を進めてきたが、ロサンゼルス地区の短歌の結社には所属していない。マイペースで作っていきたいという気持ちがあるせいでもある。
 「造園に関心があったのは植物が好きだから。それは今でも変わっていません。日本から植物の種を取り寄せては庭で育てて、歌を詠む時の材料にしています」
 最近の自分の歌については「なぜかつまらないものばかり。作ってはいるが、出すのが億劫な感じ。書道で言えば、自分の歌はいまだに『楷書』の段階で、なかなか『行書』に移れないというところでしょうか」。JICA横浜所長賞を受賞した歌は、今年三月の作。米国に移住した当時のことを思い起こしながら詠んだものだった。
 その後、庭の木は増えた。桜の木も手に入れた。いま自分で庭の整理も進めている。植物を観察しながらの歌詠みの生活。宮中歌会は「ハードルは高く、段々怖くなってきた」が、挑戦は毎年続けている。(ロサンゼルス、羅府新報長島記者、写真も)

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