ホーム | 日系社会ニュース | リベイロン・ピーレス文協60周年祝う=過去振り返り=固い絆を確認=記念式典に=百人が出席=春祭りも同時開催

リベイロン・ピーレス文協60周年祝う=過去振り返り=固い絆を確認=記念式典に=百人が出席=春祭りも同時開催

2005年11月10日(木)

 リベイロン・ピーレス文化協会(村木義明アントニオ会長)は四日夜、文協創立六十周年記念式典と、今年から開催となった春祭りの開会式を同会館で行い、会員や近隣日本人会の関係者ら約百人が出席した。式典では先没者慰霊法要が行われたほか、八十歳以上の二十八人に感謝状が贈られた。会館内には設立から六十年を振り返る写真パネルや書道の作品が展示され、来場者は懐かしがったり珍しがったりしながら文協還暦の歴史に触れた。
 夜、始まった式典にはリベイロン・ピーレス市のクロヴィス・ヴォルピ市長や、サンパウロ総領事館の丸橋次郎首席領事、同市や近隣の市議や文協関係者ら多数の来賓が臨席し祝辞を述べた。
 サント・アンドレ日系連合会の牧半治会長は六十年という期間を積み上げてきた歴代の役員や関係者の敬意を表し、「若者たちに『なんのために日系人は協会を作るのか』と言われることがあるが、そういうときは『自分たちは変わったブラジル人だからだ』と答えている」と話し、「顔だけ日本人なのでなく、心にもちょっと日本を残すために集まる。これからも頑張っていきましょう」と呼びかけた。
 文協の相談役、中野秀敏さん(二世)は、同地入植時からの歴史を簡単に紹介した。
 一九二二年に七家族が移住したリベイロン・ピーレスには、子供の教育のために三九年頃から日本人会が結成されたという。その後親睦会と名前を変えて運動会や天皇誕生日を祝う式が催されていた。
 話の中では、第二次世界大戦中、ブラジル全土で日本語学校が閉鎖された中、同市は日本人に友好的だったため特別に許可を与え、リベイロン・ピーレス日語学校は比較的自由に続けられたエピソードや、戦後の青年らが国粋的な剣道とアメリカ生まれのスポーツである野球の両派に分かれて衝突したことなど、混乱の時代のできごとが語られ、来場者は興味深く聞いた。
 もともと絆が強かった同地の日本人たちは戦争が終わるとともに親睦会を文化協会と名前を変え、戦時中はできなかった運動会を再開した。皆涙を流して競技をしたという。
 現在会館のある五千平方メートルの土地は中野さんらが市議をしていた六八年に市から寄贈されたもの。親が子供に託したいと切願していた会館は七八年に完成した。日語学校の教室もある。
 「高齢者表彰」ではなく「これまでリベイロンを支えてくれた感謝」として八十歳以上、二十八人が感謝状と赤い座布団を受け取った。最高齢者は九十歳で三人いた。
 代表であいさつした河本みつのさん(87)は、「ありがとうございます。文協ができたときからもう六十年経つんですね。早いものです」と振り返った。
 式典の後には記念演芸として、翌日からの春祭りの会場に設置されたステージで、同文協のグループ民舞が皿踊り、南中ソーランなどを披露し、祭りの前夜を盛り上げた。
 翌五、六の両日行われた初の春祭りには二日間で五千人が来場。サン・ベルナルド・ド・カンポ、スザーノ、サント・アンドレ―などからも集まり、丸山楽団の演奏や、YOSAKOIソーラン、紅白歌合戦などの出し物を楽しんだ。
 屋台で三十種ほどの食べ物が用意されたがほとんどが完売、焼きそばは一千五百食が売れたという。
 中野さんは「祭りに参加した市長も喜んでくださり、来年はさらに協力してくれるようです。天気にも恵まれよかったです」と成功を喜んだ。

image_print