2005年12月02日(金)
【エスタード・デ・サンパウロ紙一日】下院は一日未明、前官房長官だったジョゼ・ジルセウ下議の議員権を賛成二百九十三票、反対百九十二票ではく奪と表決した。同下議は、「下院を政治家の断頭台にするな」と訴えたが、運命の女神は微笑まなかった。十年間政治活動を禁じられる破目となったが、同下議は一市民として挫けず圧力に屈せず、戦いを続けると宣言し議会を去った。ルーラ政権誕生の立役者として辣腕を振るった同下議は、大統領府の満足な援護も受けられず、黒い霧として消えた。結局、最高裁は表決を黙認した。
ジルセウ下議は、議員権をはく奪された労働者党(PT)議員第一号となった。同下議は七十歳を迎える二〇一五年まで、政治活動を禁じられた。〇一五年以降の最初の選挙は、二〇一八年で同下議は七十二歳になっている。
同下議救出の議会対策で総指揮官を務めるワグネル憲政相は、登院もしなかった。レベロ下議の下院議長推薦工作では、憲政相を中心に閣僚らは一致団結して決定的役割を果たしたが、ジルセウ下議には手のひらを返したようであった。
応援に駆けつけたのは、アレンカール副大統領とシナリア下議のみであった。下院に浮動票は多数あったが説得に奔走する閣僚はなく、お付き合い程度の支援に留まった。同下議を政治危機解決のいけにえにするか、下議辞任を薦めるか迷っていた大統領の態度も影響した。最高裁判決を三回も延ばし、説得工作のチャンスを与えたジョビン最高裁長官も、同下議への貢献者といえそうだ。
五十分の抗弁時間を与えられたジルセウ下議は内心敗北を意識しつつ、証拠もなく犯してもいない罪で断罪する人民裁判の舞台に下院をしないよう訴え、議員権はく奪決議を行った下院倫理委員会を非難した。
同下議は九死に一生を得る思いで、学生時代より闘争の人生を送り、軍政時代は追放の憂き目に遭いゲリラや密入国者として不遇を囲った。全国民が享受する直接選挙という民主制度を打ち立てたことで、同下議はブラジルに対し借りより貸しがあると強調した。
「道義を求める」同情も寛容も不要だと同下議はいう。歪められた裁きと迷信の儀式により処刑場に引き出されたことが悔やまれる。議員権はく奪は暴力以外の何物でもない。PTの善悪は次回選挙で証明されると豪語した。
ジルセウ下議とルーラ大統領の間柄は何であったのか。二人の間に価値観の相違は常にあった。政権獲得までは堅かった同盟関係は、PT政権の誕生とパロッシ財務相の任命とともにヒビが入り始めた。
ルーラ大統領が二〇〇四年八月にパロッシ路線へ傾いた時点で両者の軋みが始まったようだ。同下議は今年六月十二日、官房長官を辞任。バストス法相が八月二日、同下議に大統領の進言として議員辞職を勧めた。これまでの経緯からジルセウ下議は生粋の左翼活動家であったが、ルーラ大統領は左翼の仮面をつけた非共産主義者ではなかったのか。