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日伯親善の基礎を築いた=旧神戸移住センターで=平生釟三郎・没60年展

2005年12月14日(水)

 【東京支社、一部既報】「ブラジル日本人移住の恩人」と称され、日伯両国の通商に多大な功績を残し、親善の道を拓いた平生釟三郎(一八六五~一九四五)の没六十年を記念し、財団法人日伯協会・甲南学園、国立海外日系人会館推進協議会主催で「平生釟三郎展」が開催されている。
 同展が開かれている旧神戸移住センター(神戸市中央区山本通三)は、一九二五年以降、ブラジル移民が増加の一途をたどるなか、一九二八(昭和三)年に設立された国立神戸移民収容所である。この年、移住者の数は一万一千人を突破した。
 移住者たちは、同収容所で研修を受け、そして神戸港で移住船に乗り、旅立った。一九七一(昭和四六)年、神戸港からの最後の移住船が出港するまで、同センターで過ごした移住者は約二十五万人を数えた。
 同センターで、平生釟三郎展が開催されることは意味深い。
 平生は、岐阜県出身。東京高等商業学校(現・一ツ橋大学)を卒業後、同校助教授となる。その後、韓国仁川税関長、神戸商業学校校長を経て、東京海上保険会社に入社、同社専務取締役に就任し損保業界、関西実業界の実力者となった。
 この間、甲南学園や甲南病院の設立にたずさわり、その後、同学園理事長や文政審議会会長などをつとめ活躍。一九三一年には、海外移住連合会会長兼理事長に就任し、移住事業とも深いかかわりもつようになる。 
 一九三三(昭和八)年、川崎造船の社長をつとめる一方、甲南高校(現・甲南大学)校長として、教育界にも大きな影響力を及ぼす。
 日本人移民の最大の受入国ブラジルは、一九三四(昭和九)年、「外国移民二分制限法」を制定。日本は大きな衝撃を受けた。
 平生は、経済面から日伯両国関係を改善し、制限を解こうと経済使節団を組織し、自ら団長となり一九三五年に渡伯。そしてブラジル綿花の輸入を拡大により貿易を促進し、両国の関係を深めて、移住者制限を緩和した。
 また、彼は、海外移住連合会の役割が、移住地建設だけにとどまるとしたら、その発展は見込めないとし、開拓とともに経済面の発展が必要だ、という主張。同連合会を改組し、日南産業株式会社を設立。そして自ら社長に就任。そして、海外移住について、大役を果たした。
 彼の海外移住への功績は大きく、ブラジル日本人移民史に欠かせない人物の一人となった。
 平生は貴族院議員、文部大臣、枢密院顧問官などを歴任し、実業、教育、政治の各分野で活躍し、ブラジル政府より南十字星章を授与された。
 同センターは現在、海外移住の歴史を伝える資料館・ギャラリーとして利用されている。
 国立海外日系人会館推進協議会は、日本の海外移住の証言者ともいうべき同センターの保存運動を推進している。事務局長黒田公男さん(七四)は、同展について、「平生は、日本のことだけなく、受入国ブラジルのことも考慮し、互いに発展するための友好を深めようというする、国際交流の原点に立っていました」と指摘する。
 同展の会場には、ブラジル移民の歴史、平生の活動を伝える貴重な写真などが展示されている。同展は、明年一月三十日まで開かれている。午前十一時~午後五時(火曜日休館) 問い合わせ―旧神戸移住センター資料館(078・261・1695)

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