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県連・第24回移民のふるさと巡り=ノロエステ巡礼=連載(5)=アリアンサ=「ここは祈りで拓かれた」=永田稠の大学構想引き継ぐ

2006年2月18日(金)

 さわやかな朝、会館には五筋の煙がのぼった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――。
 移民のふるさと巡り二日目、五日午前八時前にホテルを出発し、昨夜と同じアラサツーバ文化協会で先亡者追悼法要をした。
 アラサツーバ南米本願寺の僧侶、中島康夫さんらによる阿弥陀経が読経されるなか、ノロエステ連合日伯文化協会の五十嵐二郎名誉会長はじめ地元の人々と一緒に、百二十三人は順々に焼香した。
 今回は、三日間で四回法要というかつてない慰霊の旅だ。聖地や霊場を順々にめぐって参拝して歩くことを巡礼というが、観光がほとんどない今回は、まさにそんな旅だ。さしずめ、ノロエステのお遍路さんか。
 その後、昨年十一月に開館したばかりの「高橋麟太郎博物館」を見学し、息子にして現アラサツーバ文協の会長、高橋邦雄さんらの解説を聞く。残念なことに参加者の一人が体調を崩し、息子がサンパウロ市から車で迎えに来て帰っていった。
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 十一時前に同地を出発し、正午に第一アリアンサ移住地の会館に到着。同キリスト教会の下桑谷浩牧師による慰霊ミサとなる。まずは厳かに、賛美歌「慈しみ深き」を斉唱する。
 天井をあおぐと屋根瓦がみえる。梁からぶら下がった扇風機は、熱せられた空気をただかき回しているだけだ。バスの冷房で涼しかった身体からは、ただ座っているだけで、じんわりと汗がにじみでる。
 来伯十六年という牧師は「アリアンサ出身者の人、手をあげて」と呼びかけると、一行の十四人が答えた。さらにここに家族の墓のある人、と尋ねると四人が挙手した。初めてこの地を訪れた人と聞くと、大半が手をあげた。有名な移住地だが、なかなか訪れる機会がないのだと分かる。
 それを見て、牧師は「本当によくおいでくださりました」と微笑んだ。
 「ここは祈りによって拓かれた地であります。霊眼を開いて見ていただければ、真実の価値がわかってもらえると思います」。暑さをものともせず、牧師は情熱的に語りかける。
 創立八十二年を迎える第一アリアンサは、当時一般的だった数年だけの出稼ぎ志向の移民と違って、最初から永住志向のインテリ層を多く初期開拓者として迎えた文化村として有名だ。最盛期で八百家族が入植したが、徐々に人口流出がつづき、現在は約二百家族だという。
 創立者、力行会の永田稠(しげし 一八八一―一九七一年)氏の功績を振り返り、彼の残した名言「コーヒーよりも人を作れ」や、さらに「アリアンサは五十年かかっても百年かかってもいいから大学を作れ」という同氏の願いを説明し、牧師自身も「大学は無理でもアカデミーを作らせてもらおう」との想いを強調、まい進する決意を明らかにした。
 賛美歌「主我を愛す」を合唱した後、全アリアンサ文協会長、本間重雄さんがあいさつ。「農業経営は楽ではない。村から出て行った人は帰ってこない。我々はこの村を守って、できるだけがんばってやっていこうと思う」。ワイシャツは汗で、べったり背中に張り付いている。
 第一の最古参、新津栄三さんは「コロノではない、新しい移住地構想はここで生まれた。その後、チエテ、バストス、トレス・バラスができた」と、永住志向の移住地建設を最初に目指した理想をふりかえった。
 第一の創立は一九二四年で、第二、第三と拡大、長野・鳥取・富山などの地方自治体と民間が共同して行った事業だった。二九年に設立されたブラ拓により開発されたその後の国策移住地との違いを説明した。
 同地出身者十四人の一人、西田多美子さん(64、二世)は第一アリアンサ十区で生まれた。第一小学校を卒業し、「少女会でバスケット、ピンポンをよくしました。二十二歳ころまでいましたから、ここに来たら、みんな友だちです」といかにも懐かしそう。「でもパイネイラの木だけは、そのままです」と微笑んだ。
(つづく、深沢正雪記者)

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