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県連・第24回移民のふるさと巡り=ノロエステ巡礼=連載(3)=プロミッソン=謎 背中合わせの記念塔=清貧に生きた上塚偲ぶ

2006年2月16日(木)

 平野植民地で分かれを惜しみながら出発した一行は、午後四時前、プロミッソンの上塚周平公園についた。上塚(一八七六―一九三五年、熊本出身)は〃移民の父〃と慕われ、特に人気の高い、移民史上の英雄の一人だ。
 この土地はもともと植民地事務所があった場所で、上塚の家もここに建っていた。いわば、笠戸丸からわずか十年後の一九一八年、プロミッソンがはじまった場所だ。最盛期、移住地全体で千六百家族もの日本人が住んでいたという。
 奥にある運動場に向けて一九二八年に建立された「開拓十周年記念塔」、そして四十年後、同植民地開拓五十周年で建てられた「移民の父・故上塚周平翁之領徳碑」は逆の上塚周平街道向きになっている。
 「なぜ、二つの碑が背中合わせになっているか? それは昔、運動場の方に本通が通っていたから」と謎解きをするのは、子どもの頃、上塚本人から薫陶を受けた安永忠邦さん(85、二世)は、まるで昨日のことのように思い起こす。
 「開拓十周年記念のころ、上塚先生はこの下の竹やぶのところで、まだ開拓当時の掘っ立て小屋に住んでいた。『先生の家を新しく建てましょう』と進言するものもいたが、『わしゃ、この家でよか。わしの家建てる金あったら、学校建てろ』と反対された」
 上塚は東大法科卒で、俳句をたしなむインテリだった。横井小楠(幕末の開国論者)や徳富蘇峰の自由思想の影響を受け、移殖民事業に生涯を捧げた。
 そして一九三五年七月六日、「いっさい財産をもたないまま亡くなった」という。告別式はこの運動場で行われた。「先頭の車が約八キロ先にある墓場に着いたころ、最後の車はまだここを出ていなかった。当時まだ車が珍しかった時代です。日本学校の生徒も全員参列しました」。移民の父といわれるゆえんや、清貧に生きた上塚翁の姿を彷彿とさせるエピソードだ。
 二世にして最古参、安永さんは植民地の生き字引だ。「先生は絶対に自分では熊本出身とは言わなかった。『どこですか』と尋ねると、『わたくしはジャポン県たい』といわれるのが常だった」。高齢とは思えない張りのある声で、活き活きと当時の情景を再現した。「先生は、自分のことは気にせず。ただ移民のことを気にされていた」。
 一行を歓迎する式典は、プロミッソン日伯文化体育協会の岡地建宣(おかじ・たけのぶ)会長の歓迎の言葉に始まり、続いて、同市長のジェラウド・シャーベス・ヴァルボーザさんが、一行が市の公式賓客であることを宣言する市条例4400を読み上げた。
 ふるさと巡り一行が訪問した地はたくさんあるが、市長がそこまでする場所はほとんどない。日本人が拓いた町、その伝統は今も続いている。
 移民八十周年記念事業として始められた第一回ふるさと巡りは十八年前だ。その時に同地を訪れていた中沢宏一県連会長は「前きた時は、イッペーブランコが満開だった」と、周囲に立ち並ぶ木々を見わたした。
 第一回から連続参加する和田周一郎さん(元県連会長)の長男、一男さん(81、二世)=ソロカバ在住=はプロミッソン生れで五歳まで住んでいた。「前回(第一回)の時は、忠邦さんのお父さんが話しをされた。うちのオヤジと運動会をやった話をしてくれたのを憶えている」と目を細め、懐かしそうに語った。
 二年後に九十周年を迎える古い植民地だけに、その初期移民の息子世代はすでに八十代――。その事実自体が、移民史を雄弁に語り、この旅そのものが移民史の一部であることを感じさせた。
(つづく、深沢正雪記者)

■県連・第24回移民のふるさと巡り=ノロエステ巡礼=連載(1)=つわものどもが夢の跡=悲劇の平野で追悼捧げる

■県連・第24回移民のふるさと巡り=ノロエステ巡礼=連載(2)=〃最古〃の日本墓地か=運平の墓にピンガを注ぐ=平野植民地

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