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県連・第24回移民のふるさと巡り=ノロエステ巡礼=連載(7)=アリアンサ=『八十年史』編纂進む=寄付や情報提供呼びかけ

2006年2月23日(木)

 第一が八十周年を祝った〇四年に「八十年史編纂委員会」が設立され、〇九年刊行を目指して着々と準備が進められている。委員の一人、ユバ農場の矢崎正勝さん(62、山梨県)も「百年祭の内容も入れたいので、その後に出すことにしています。しっかりしたものを作りたい」と意気込む。
 まずは高齢者からの聞き取り取材を優先し、地区別に年配者の座談会を行っている。「日本に帰った人からも写真を送ってもらっているので、見たことがないものも集まっています」。
 第一、第二、第三、ユバからそれぞれ代表者が集まり、約二十人で委員会は構成されている。日本側でも木村快さん(「現代座」演出家)、渡辺伸勝さんら研究者が「アリアンサ通信」(http://homepage3.nifty.com/gendaiza/aliansa/index.html)を通して協力を進めており、同時に、出版や研究費用にあてる寄付金も集めている。
 矢崎さんは「情報提供してくれる方を求めています」と呼びかけた。連絡はユバ農場(電話=18・3708・1247)の矢崎さんか熊本忠博さんまで。
 『移民史年表』(人文研)によれば、一九二一年に移住地建設のために信濃海外協会が日本で発足。第一アリアンサは二四年十月に二千二百アルケールを購入登記し、創立した。翌二六年七月には第一で最初のキリスト教会集会が開かれている。
 創立者の一人、ブラジル力行会の永田稠会長が「コーヒーよりも人をつくれ」と指導してきたことはつとに有名だ。
 数年で錦衣帰郷するというデカセギ意識が強かった当時、最初から永住を志向し、大学卒の移住者が多く入った。移住前の職業は「植物遺伝学者」「宮内省高等官」「造船技師」「医師」「小学校長」などもおり、文化の薫りを漂わせる異色の移住地だった。
 鳥取海外協会による第二が二六年(二千五百三十六アルケール)、富山海外協会などによる第三が二七年(三千三百アルケール)と立て続けに創設された。
 一九二九年に日本人移住地造成の統一機関としてブラジル拓殖組合(ブラ拓)が設置され、その後、各海外協会から徐々に業務が引き継がれた。
 第二アリアンサを後にし、北原地価造頌徳記念公園へ。「こんなにたくさん記念碑があるの」と驚きの声があがる。歌碑三基(岩波菊治、佐藤念腹、木村圭石)、人物顕彰碑(八木周平、永田稠、北原地価造、輪湖俊午郎)が四基に加え入植記念碑、計八基も建てられている。
 午後五時過ぎ、ユバ農場(弓場常雄代表)へ。小原明子さんらの案内で北原地価造記念館や舞台を見せてもらう。
 一九三五年に弓場勇によって創立されたこの農場は戦後、南米最大の卵生産基地として、その名をとどろかせた。最盛期で二百人超百七十人を数えたが現在は七十人ていどだという。テレビや雑誌でもひんぱんに扱われる有名な農場だ。
 私有財産を廃して共同生活を送り、「祈り、耕し、芸術する」ことをモットーに、独自の生活スタイルを築き上げてきた。公演依頼を受けて、あちこちで舞台を披露しているユバ・バレエが特に有名だ。
 ユバ名産の手作り味噌、油味噌、ゴヤバやグレープフルーツのジャムなどに一行のご婦人たちがむらがるように買っていた。わずか三十分ほどで去っていく一行を見送りながら、小原さんは「もっとゆっくり見られたら良かったのに・・・」と残念そうにつぶやいた。
(つづく、深沢正雪記者)

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