ホーム | 日系社会ニュース | 歴史風化させたくない――サンセバスチョン日本人会50周年――〃生き残り〃かけ式典を=懐かしい相互扶助強かった時代

歴史風化させたくない――サンセバスチョン日本人会50周年――〃生き残り〃かけ式典を=懐かしい相互扶助強かった時代

2006年5月10日(水)

 サンセバスチョン日本人会(大沼ニュートン会長)が今年創立五十周年を迎え、六月二十五日に記念式典が開かれる。サンパウロ州北部の観光都市である同市。海岸に面した会館を所有するのが、日本人会の誇りの一つだ。一世の高齢化とデカセギによる空洞化が顕著。関係者らは、半世紀の持つ意味を重く受け止めている。歴史を風化させたくない──。記念式典は、会の生き残りもかけたイベントにもなりそうだ。
 「バナナで埋まっていて、マットの中だった。道らしい道もなく、アベニーダから山の方に向かって、四メートルおきに電信柱を立て電気を引きました」。
 日本人会の創立者の一人、松山修倉さん(84、静岡県出身)は、サンセバスチョンに移り住んだ時のころを懐かしむ。
 先に移住していた兄のつてで、両親や兄弟とともに三四年に渡伯。サンパウロ州奥地の「文化植民地」に入った。
 海に近いのが故郷に似ているといって、三九年に同市内に土地を購入。売買契約は、アベニーダから〃マイズ オウ メーノス 三キロ〃という内容だったという。
 戦争で身動きがとれなかったため、四六年に転住してきた。「日系コロニアで勝ち負けの抗争があった。巻き込まれたくなくて、ここに逃れてきた」。
 戦後初の入植者はスミカワさん。松山さんと同様に転住者で、同じく四六年にきた。実は、同市の日系移民史は戦前に始まる。戦争中に追放されて、空白期間ができてしまったため、きちんとした記録が残っていない。
 松山さんは「〃アベ〃さんという人が製材所を持ち、〃マツモト〃さんが漁をしていた」という。
 古くから同市に居住しているブラジル人たちに聞いてみたところ、「日本人がいた」という証言を得られた。詳しいことは分からない。
 日本人会は五六年に、戦後にきた人たちが中心になってつくられた組織だ。「銀行も無かったので、頼母子講のような形で始まった」(松山さん)。
 土地は肥沃で、キュウリ、トマト、スイカなどがよく生った。ただブラジル人に野菜を食べる習慣が定着していなかったため、販売に苦労したという。
 海岸ではタイーニャが昼寝していると言われ、海の幸にも恵まれたようだ。
 現会館は、会員が力を合わせて、七二年に竣工させたもの。「朝早くから、弁当を持っていき、建設のために一日中、働いていたもんですよ」と、松山さんの妻は、相互扶助の精神が強かった時代を振り返る。
 活動の中心は現在、ゲートボール。かつて多くの生徒で賑わった、日本語学校も今はない。青年たちがデカセギにいってしまい、若い世代がごっそりと抜けてしまったからだ。
 会館竣工当時、七十世帯いたと言われる会員数(会費納入者)も、二十五世帯しかいない。
 大沼会長は「父の時代から、会が崩れないように皆が知恵を出し合ってきた」と語り、生き残りをかけるために意欲的に取り組んでいく姿勢を示している。
 記念式典は招待者向けと一般向けの二部構成の予定。植樹やミサ、アトラクションなどが計画されている。

image_print