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コロニアからも哀悼の意=橋本元首相死去=現職総理として来伯=日伯議連会長つとめる

2006年7月4日(火)

 橋本龍太郎元内閣総理大臣が一日、多臓器不全と敗血症性ショックのため東京で死去した。一九九六年に現職総理大臣として十四年ぶりに来伯、日ブラジル会議員連盟の会長も務めるなどブラジルと深い関わりのあった元首相。政界引退後も親伯派として大きな存在だった。日本移民百周年を二年後に控えた突然の訃報に、ここサンパウロからも哀悼の声が上がっている。在サンパウロ総領事館では五日に同館で弔問記帳を受け付けると発表した。
 九六年八月二十四日にブラジルを訪れた橋本元首相。現職総理大臣としては八二年の鈴木善幸首相以来、十四年ぶりの訪伯だった。サンパウロではイビラプエラ公園の開拓先没者慰霊碑を訪問、日系団体代表と懇談したほか、州政庁で日系団体合同の歓迎会が開かれている。
 文協貴賓室で行われた日系団体代表との懇談には、文協、援協、アリアンサ、県連の代表が出席。席上、文協の山内淳会長(当時)から要望された日伯学園構想は、具体的な資金援助の話まで進むなど、大きな話題となった。
 〇四年二月には日ブラジル会議員連盟の会長に就任。〇五年五月のルーラ大統領訪日の際も懇談し、〇八年の百周年に向けた準備などについて話し合っていた。同年八月に政界を引退したが、その後も日本を訪れたブラジル日系社会関係者と面会するなど、日本の政界における「親伯派」としてその存在は大きかった。
 訃報を受け、出身県のブラジル岡山県文化協会(根岸健三会長)、ブラジル日本都道府県人会連合会(松尾治会長)など関係団体は弔電を送った。
 在サンパウロ総領事館は五日、同館のあるトップセンター(パウリスタ大通り854番)三階多目的ホールで弔問記帳を受け付ける。午前九時半から正午。午後一時半から午後五時まで。

網野弥太郎さん
(県連元会長)

 サントス・ボケイロン海岸に建つ、日本移民ブラジル上陸記念碑。この台座の文字も橋本元首相の揮毫によるものだ。県連が総領事館を通じて依頼し、実現したという。
 「現職の総理大臣が来伯するのは久しぶりのことだったから、日系団体の代表から見れば期待は大きかった」。来伯当時の県連会長だった網野弥太郎さん(現県連顧問)は振り返る。
 夫人とともに慰霊碑を訪れた際も案内した。「若い、ファイトのある方だと感じた。丁寧に参拝していただきました」
 日系団体との懇談で、県連からは在外選挙権運動への協力を要望した。元総理からは「わが国としても海外に暮らす日本人の基本的人権を守るため善処したい」と前向きな回答があったという。運動は九八年に結実。網野さんは元総理への要望が総領事館の選挙人出張登録につながったと評価する。
 「ブラジルにとって必要な人がまた一人亡くなりました」と語る網野氏。元総理とは同年齢だったという。「議連の会長になって新たに日伯の道が開けるかと思っていたのですが、期待が大きかっただけに残念です」と哀悼の意を表した。

岡詢さん
(前岡山県人会長)

 橋本元首相来伯に際しては、岡山県人会関係者との懇談会も開かれた。会に出席した岡詢・県人会前会長は「一国を代表する、敬服に値する人だと感じました」と、その印象を振り返る。懇談には大使、総領事も出席。和やかな雰囲気だったという。
 当時は、竹下登元首相の来伯を機に、日伯間の人材交流を目的とした「ふるさと創生事業」が進められていた時代だ。「橋本元首相も若人の交流に大きな関心を見せていました」
 「入院中と聞いて、一日も早い回復を祈っていました。これからも指南役としてがんばってほしかった。惜しい人材を失ったと思います」とその死を惜しんだ。

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