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入植70年をサンパウロ市で祝う=ジャクチンガ植民地=10月に出身者の集い=開拓先人への感謝と共に

2006年8月24日付け

 サンパウロ州ポンペイアのジャクチンガ植民地出身者の集いが十月十二日午前九時から、サンパウロ市の青森県人会館(Rua Dr.Siqueira Campos,62)で開かれる。同植民地は今年、入植七十周年。毎年サンパウロ市で開かれている出身者の集いも今回で十回目を迎えることから、関係者は広く参加を呼びかけている。戦前には約百家族が暮らしたという同植民地。今は牧場に変り、かつての面影はなくなってしまった。地元で七十周年を祝う人はいない。世話人の一人、国井精さん(70)は「今の自分たちがあるのは、植民地開拓の先人のおかげ。その子孫として、けじめの年に、一人でも多く参加していただきたい」と呼びかけた。
 ポンペイア市から五キロほど離れたところにあったジャクチンガ植民地。最盛期には五百人近い日本人移民が暮らしたが、今は牧場に変わってしまった、〃消えた移住地〃のひとつだ。
 ジャクチンガに入植がはじまったのは一九三六年。モジアナ線など州内からの転住者が中心で、当初はコーヒー園のコロノや歩合作などに従事していた。その後、そこの地主が所有する一〇〇〇アルケールの土地のうち三百アルケールを日本移民に売却したことから、植民地が形成され始めたという。
 植民地出身の二世である世話人の国井精さんによれば、戦前、戦中の四〇年代には九十八家族、約五百人が暮らしていたという。綿や米など雑作を栽培。中でもバタタが有名だった。
 三区に分かれた植民地には日本人会館があり、日本語学校、ブラジル学校があった。当時は四十人ほどの子供がおり、三年生まで植民地の学校、四年生からポンペイアの町へ通っていたという。
 剣道や野球、陸上、柔道などが盛んで、特に剣道は三地区の対抗試合が開けるほど。「毎年、会館の創設記念日には運動会が開かれていました」と国井さん。
 当時、ジャクチンガの周囲には二十近い植民地があり、植民地対抗の野球大会に十数チームが出場するほどだったそうだ。
 新年には、会館での遥拝式の後、家長、青年が各戸をあいさつ回りする習慣があるなど、「日本の村のようだった」。そんな植民地だったが、戦争中は、他所と同様に敵性国民として日本語教育、集会などが禁じられた。当時少年だった国井さんたちは夜学で日本語を学んだ。戦後の勝ち負け抗争では、他の町のような死傷事件は起らなかったものの、植民地が二分された状態が長く続いたという。
 戦後、六〇年代になると営農の困難、子弟の教育などの理由で、人口はサンパウロへ流出。国井さん自身は五九年にサンパウロへ。七年ほど前に、最後の営農者が農地を売り、植民地は牧場に変わった。
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 サンパウロ市で植民地出身者の集いが開かれるようになったのは一九六五年。当初は十年ごとの開催だったが、一世世代の高齢化もあって、国井さんたちの世代に世話人が移ってからは毎年開催されている。出身者やその家族など、毎回百人以上が参加する集まりだ。
 出身者だけでなく、出身者の家族、子孫など幅広い人たちが訪れている。そして今年、十回目の節目を迎えた。「若い出席者も多いから、これからも続くんじゃないかと思っています」と国井さんは期待を寄せる。
 七〇周年、そして十回目の節目。「八〇周年の時は、自分たちではできなくなると思う。だから何とかやろうじゃないかという気持ちです」。
 「本当は慰霊祭もしたいのですが。そのかわりに、亡くなった先人に黙祷を捧げたい」と国井さん。「今自分たちが贅沢できたり、成功したりしているのは、何の楽しみも無い中で開拓に携わった祖先のおかげ。けじめの年に、子孫として、開拓にがんばったおじいさんやひいおじいさんの霊のためにも参加してほしい」と出席を呼びかけた。
 当日は百三十人ほどの出席が見込まれている。午前九時開会。開拓の先人に黙祷を捧げ、食事をはさんで思い出話に花を咲かせる。会場に昔の写真を拡大して展示する試みも計画しているそうだ。また、お楽しみ抽選会や、入植七十周年の記念品贈呈なども予定しているという。
 費用は一人十五レアルで、一皿持ち寄り。午後四時ごろまで開かれる。
 申し込み、問い合わせは国井さんまで。電話11・3768または3714・1362。

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