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写真撮影、写真館経営ひと筋=安中さん作品集 ロンドリーナの『歴史を明かす』出る=シベリア抑留生活体験=それでも好きな道はずさず

2006年9月2日付け

 【ロンドリーナ】ロンドリーナ在住で写真家・写真館経営一筋の安中裕さん(80)の写真集がこのほど、ロンドリーナ市の協力によって発行された。写真集名は『歴史を明かす』―写真館フォトエストレーラの遺産―。知人の写真家カルロス・ステンデルスさんの撮影・保存写真を含め九十五枚の作品が収録されている。内容は、写真で見る一九三〇年代から七〇年代のロンドリーナ発展の歴史、および農業、風俗、および安中さんの家族および本人の歴史である。安中さんの半生は波瀾万丈だ。しかし、生活が写真から離れることはなかった。写真とともに八十年、現在もそうである。
 裕さんは、二六年、札幌生まれ、二八年七月らぷらた丸で、父母とともにブラジル渡航した。父親の末次郎さんは、リベイラ川河岸のイグアッペ植民地に入植、同地の二十周年に際し「二十周年記念記録写真集」を出した。さらに、バストスに転住して、「バストス十周年記念写真集」をつくっている。根っからの写真家なのである。
 息子の裕さんは、父親の背中を見て育った。末次郎さんはイグアッペに写真館を開業したとき、馬に乗って日本人家族を写して歩き、写真帳をつくるため、単身日本に帰って目的を達した、という。子供の裕さんは父親の仕事ぶりをしっかり身体と目に刻んだ。
 末次郎さんは、四一年、五人の子供の教育を日本で受けさせたい、と帰国した。まもなく、戦争が勃発、四五年、裕さんは父親の勧めで、陸軍に志願、樺太の陸軍病院勤務となった。野戦病院行きが決まった日が、八月十五日だった。
 終戦から一週間後、帰国にそなえて、豊原駅前で待機していたとき、ソ連機による機銃掃射を受けた。多数の人びとが死傷、裕さんは救護活動にあたった。この事件の一カ月後、ソ連軍から、乗船命令が出た。しかし、船は日本には向かわなかった。
 ウラジオストックの北方の収容所に入れられ、強制労働をさせられた。二十歳の裕さんは体力があって、どうにか生き延びた。四十代の年配の人たちは、寒さと栄養不良のため、毎日死んでいったという。カチカチの凍って死んでいる人を穴のなかに放り投げる作業が続いた。
 四八年、ようやくシベリアでの抑留生活が終わった。
 裕さんは、潤子さんという伴侶を得た。五二年、家族十一人が、親戚の呼び寄せで、ブラジルへ帰国という形で再渡航した。同年十月、ロンドリーナでドイツ人経営の写真館「フォトエストレーラ」を購入、家族は〃好きな道〃で生活の立て直しにかかった。裕さんは、写真家として、ロンドリーナの発展にレンズを向ける日が続いた。
 多くの日系の写真館が消えていくなか、父親の末次郎さんの遺志を継いで、現在も経営を続けている。末次郎さんは八九年他界、一緒に唄を楽しむことが多かった、妻の潤子さんは昨年病死した。
 今度の写真集『歴史は明かす』は、ロンドリーナ市文化局が裕さんの五十年に余る写真一筋の仕事を評価し、パトロシニオとなった。収録された家族の写真もまた、文化遺産と認められたのである。(中川芳則通信員)

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