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世代超え続く植民地の絆=ジャクチンガ会なごやかに=サンパウロ市=120人が旧交あたため

2006年10月17日付け

 サンパウロ州ポンペイア近郊のジャクチンガ植民地出身者の集いが十二日、サンパウロ市の青森県人会館で開かれた。同植民地は今年で入植七十周年。しかし入植者はすでに同地を離れ、今は牧場に変わっている。会当日はかつて同地に暮らした人たちはもとより、その子弟、孫まで約百二十人が集い、七十年の節目をサンパウロ市で祝った。
 ジャクチンガ植民地出身者の集いは一九六五年、南伯産業組合のサロンで初めて開かれ、今年で十回目を数える。
 午前十一時すぎからはじまった今年の集い。正面に並んだ六人の世話人の中から、国井精さん(70)がマイクを握り、あいさつ。世話人ほか、開催にあたっての協力者に謝意を表わした。
 「楽しみもなくがんばってきた先輩に対して私たちができることは、感謝することだけ」と語る国井さん。さらに、若い世代の参加が増えていることを「心強いこと」と話し、「祖父母のおかげで現在の幸せな生活がある。今後も会が続いていくようお願いしたい」と結んだ。
 この日は約百二十人が会場を訪れた。親とともに入植し子供時代を過ごした人、同地で生まれ育った人だけでなく、会場にはその子弟や孫まで、世代を超えた人たちの姿があった。先人へ一分間の黙祷を捧げた後、昼食を囲んで昔話に花を咲かせた。
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 三六年に入植がはじまったジャクチンガ植民地。七十年が過ぎ、開拓時代を知る父母の世代には亡くなった人も多い。この日会場を訪れた高齢者の多くは、子供時代に入植した人、同地で生まれ育った人たちだった。
 多感な子供時代を過ごした土地。それだけに思い出も多い。
 この日訪れた立花操さんの母、染谷きりさん(故人)は、産婆として植民地や近郊各地で一千人以上の出産に立ち会った人だという。
 「男みたいな人でね。一度出て行くと、夜中でも馬で出かけていったものです。行った先でまたお産を頼まれて、一カ月くらい帰って来ないこともありましたよ」と立花さん。当時の開拓前線の様子を物語るエピソードだ。
 親睦会場の壁には、国井さんが所蔵する昔の植民地の写真が飾られていた。植民地から野菜を運ぶ道路の建設風景、結婚式、小学校の学芸会、女子青年団、野球チーム…。あちこちで写真の中に家族、祖父母の姿を見つける人たちが見られた。
 もっとも、平穏な思い出ばかりではない。
 戦中戦後、日本語教育が禁止されていた当時、植民地では夜間に村の青年達が子供たちに日本語を教えていたという。
 四歳で入植、二十四歳で結婚するまで同地で過ごした知野千代子さん(76、北海道)。「帳面を風呂敷に入れて、先生が呼ぶまで何時間も綿畑の中に隠れていたものです。おそろしかったですよ」。
 四五年には、国井さん宅の倉庫で夜間に行っていた日本語教室が警察に踏み込まれ、植民地の青年をはじめ数十人が逮捕される事件も起こっている。
 多くは数日で釈放されたが、責任者だった袴田リョウさんはサンパウロの刑務所へ。国井さんの父親、兄はさらにそこからアンシエッタ島へ送られた。
 「日本語を教えるのをやめようかと話していたところでした」、立花さんの兄、染谷義雄さん(84)は振り返る。染谷さんも二年間の収監生活を送った一人だ。八歳で入植、二十九歳までを同地で過ごした。逮捕当時は二十五、六歳。「六十年、七十年過ぎた今では思い出ですけど、当時はひどかった」と振り返りながら、それでも「ジャクチンガで育ったようなもの。みんなここで大きくなったんです。懐かしいところですよ」と賑わう会場で話していた。
 戦前の最盛期には約五百人が暮らしたという同植民地。「日本人ばかりでしたよ」、十七歳で入植した東島アキエさん(88、熊本)は当時を振り返る。しかし、戦後になり人々は都市へ移り、五、六年前に最後の入植家族が土地を売った。かつての植民地は現在、牧場や養鶏場に変わり、往時の面影はない。
 同植民地出身で今もポンペイアで暮らす南重義さん(83)。この日のために駆けつけた。冒頭のあいさつで「今ジャクチンガには日本人は一家族もいませんが、皆さんいい所を見つけ、ブラジル各地で活躍しておられる。立派な方たちが集まって仲良く昔話をする。非常にためになる事、なつかしい事です」と話し「言えばいつでも連れて行けます。皆さんぜひお越しください」と呼びかけていた。
 五〇年代までは、毎年元旦に植民地の学校で新年の祝賀式が行われていたという。同地で生まれ大学まで通ったという女性(六十代)は「皆で日本とブラジルの国歌を歌って、お正月の唄を歌ったものです」と懐かしそうに話す。「七十周年だから」と五年ぶりに訪れた出身者の会。「知り合いや、家族のことを知っている人にたくさん会えました」と笑顔を見せた。
 国井さんが一人一人の名を読み上げ、記念の品を贈呈。午後三時を過ぎ、集まった人たちは再会を約しながら三々五々、帰路に着いた。

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