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日本語教育の歴史を残す=センター=ベテランに語ってもらって=逆境でも続けてきたから=現在まで生き続けている

2006年12月6日付け

 ブラジル日本語センター(谷広海理事長)は、日本語教育の歴史を残していくために、戦前、終戦直後の日本語教師三人を集め、去る十一月二十三日、座談会を同センターで開催した。参加した教師は、柳森優さん、伊津野敬嗣さん、高橋都美子さん。昔の体罰についての回想から始まり、学校行事、教師会、教科書、教師の境遇など、当時の日本語学校の様子が語られた。コーディネーター役を務めた矢野京子さんは「今、話を聞いておかなければ、日本語教育の実情は残らなくなってしまう」と、これからも日本語教育関係者の座談会を計画していくことに意欲を見せていた。
 「戦前、戦後と五十年間、日本語教育に携わってきたことを誇りに思う」。柳森さんは、これまでの教員生活、また同センターの役員時代を振り返り、そうまとめた。
 同氏が教壇に立ち始めたのは戦前のこと。「助手が一人いたけどあとは一人。教えるのはとてもハードだった」。午前六時から授業を始めて午後四時まで。教師の「薄給だけでは生きていけない」ので、整骨マッサージの副業をはさんで、午後六時からは夜学という毎日。
 「一番多いときには(生徒が)百八十人とかいましたよね」と伊津野さん。昔の生徒は日本語を〃わかっていた〃ので、現在とは違うという。「一斉授業ではなくて一人一人廻って教えていたから。だから、よく慕ってくれたのかな」。
 戦前にも、教師が集う勉強会が、各地域で行われていた。今は地区単位だが、以前は〃線〃単位。「『パウリスタ延長戦教育会』って。サンパウロとパラナが中心だった」と柳森さん。
 高橋さんは学校行事に触れ、「作品会、お話会、音楽会をやってましたね」。「学芸会にしても、運動会にしても日本人会経営だから、皆に何かをやらせるのに苦労しましたよ。百八十人全員に」と、伊津野さんが苦労話を加える。
 「昔は、生徒と先生と親が一体だったような気がしますね。田舎の学校では親がよく野菜なんか持って来てくれて。薄給でしたけどね」。柳森さんはなつかしそうに振り返っていた。
 戦中、日本語使用、日本語学校が禁止されたことは教師にとっては「苦難の時」だった。「五〇年ごろまでは(授業が)できませんでした。不安を持ちながらも、地域を廻る巡回指導をしている先生もいましたよね。私は農業をしましたよ」と柳森さん。
 高橋さんは「昔からの先生方が、逆境の中でも日本語教育を続けてきたからこそ、今コロニアの日本語が生きているんでしょう。ありがたいことです」と締めくくった。
 これからの日本語教育について、伊津野さんは「皆が習うのでなく、目的のある人が日本語を勉強する時代」。高橋さんが「生徒の目的も多様化してきているし、できる限り一人一人の目的に合わせた内容をやっていければいいな」と話した。

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