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「こんなに狭かったかな」=63年ぶりの来訪者たち

2006年12月13日付け

 かつてのサントス日本語学校講堂で行われた署名式には、地元、サンパウロ市の日系団体関係者のほか、かつてこの学校で学んだ人たちも多数訪れていた。
 会場には、サントス漁業組合長をつとめ戦後返還運動に尽力した故・中井茂次郎さんの娘、白木田鶴子さん(78)の姿があった。
 開校からわずか十数年で閉鎖された日語校。日本の文部省からも教員が派遣されていた同校では、当時、子供たちは隣接するブラジル学校に二年間通った後、九歳からここで日本語を学んだという。
 田鶴子さんがサントスを離れたのは十四歳、六年生の時だった。「家に帰ったら父母が荷物をまとめていて、『今日からここにおられないから』と言われました」。
 親類を頼り、一晩かけてソロカバナ線奥地のプレジデンテ・ベルナルデスへ。帰化していた父親は漁船の管理のためサントスに残った。母親と二人の移動。サントスへ戻ったのは戦後、四七年のことだった。
 学校から離れたポンタ・ダ・プライアに住んでいたため、近所の子供で日語校に通っていたのは三人だけ。幼い田鶴子さんは、ある日父親に「どうして日本語をならわなきゃいけないの」と言ったという。そして茂二郎さんは答えた。「今はいらなくても、末に習って良かったと思う時がくるぞ」。
 そんな会話も忘れた一九八六年、田鶴子さんは訪日した。帰伯すると病床にあった父親が言ったという。「父さんに言うことはないか」。四十数年前の会話がよみがえった。「日本に行って、話せて良かったろう」。その三年後、茂次郎さんは亡くなったという。
 六十三年振りの母校訪問。「全部歩きましたよ」と田鶴子さん。「小さい時の思い出がよみがえりました。帰ってきた、という気持ちです」
 戦前当時、サントス地域には三つの学校があったという。照屋マリオさん(93)は、ほとんどが沖縄系の人で占められていた同市マラペーのウニオン植民地の学校運営に携わっており、当時サントス日語校の教師だったヤナギザワ・アキオ氏と交流があったという。
 接収に際しては、日本人がサントスから立ち退いている間、所有者不在ということで行われたという。「戦後すぐから返還運動をしていたが、日本人会の役員も段々かわって、気にしなくなっていきました」
 立退き以来の訪問。「今日入って、なつかしいなと思いました」と話す照屋さん。「日本政府と日本人の寄付で作った学校。食事を辛抱して自分の血で作ったところです。戻ってよかった」と感慨深げな様子だった。
 「今日は私にとって特別な日です」と笑顔を浮かべたのは、サンパウロ市から訪れた森口イナシオさん(71)。父親の宇吉さんが日本人会書記、母親の義子さんが同校で日本語教師をしていたイナシオさんは、接収された校舎の中に住んでいた。
 六十三年ぶりに訪れたかつての我が家。「全部覚えていましたよ。子供の頃の思い出では広い感じだったのですが、今日来て、こんなに狭かったかなと思いました」と話す。返還に喜びを表わすとともに、「これからどうしていくかが大事ですね」と話していた。

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