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女が男を10倍磨く=3人目の妻と寄り添う=サンパウロ市=磯部正さん=「百年は長いといえば長い。短いと言えば短い」

2007年1月1日付け

 「女が偉かったら、男は十倍の力を発揮できる。そう信じて疑わない」。そんな信条を力強く話すのは磯部正さん(北海道出身、サンパウロ市在住)。九十歳のときに智恵子さん(89)を三人目の妻として迎えた。
 「とりあえず金もうけしてカフェザールをやらないかんと思ったから」。一九三三年、磯部さんは二十七歳で呼び寄せ移民として、妻と家族とともに来伯。「とにかくカフェ」と日本語教師の話も断り、ベラクルスからパラナ州に入植した。
 五年の間に母と一人目の妻を亡くした。それでも、「とりあえずカフェザールを」と励んだ。
 「娘三コント」と言われていた時代。二人目の妻は「今はまだ人の土地だけど、将来は日本の殿様みたいになってやる」とカフェザールの夢を語って、くどいたそう。四三年、三十七歳のときだ。
 戦後五〇年に、パラナ州コロラードで初めて自分のカフェを植えた。「日本におったときは地方で農業をしている人をあわれんだけど、ブラジルに来て、伸びていく作物を見てうれしかった。子供が育っていくのを見てるみたい。百姓にこんな喜びがあるとはね。月日がわからんほど働いたよ」。
 百姓をして体力をつけたことも、農業をして得たことだった。
 「カフェの研究はやりがいがあるし、相場で大きく上下するけど、成功したときにはドサッと金が入る。ドサッと。笑いが止まらんよ。ブラジルで一生カフェをやろうと決めた」
 ブラジルに来てうれしかったことの一つに、「サツマイモとカント豆(落花生)を自分で作って食べられること」と磯部さんはいう。北海道にいたころは「さつまいもは高級品だった。年に三回くらいしか食べれなかったからね。鹿児島の人に話したら笑ってた」。
 磯部さんがカフェを作り出したころからコロラードも〃街〃になりだした。「私はコロラードの開拓とともにあった」。日本人会の会長を務めるとともに、六十歳から日本語学校の教師を始めた。
 「ただで日本語を、十年も二十年も教えているのは珍しいんだろ」。〃ただ〃の噂を聞いて、周囲の町からも生徒が集まり、一時は百六十人を教えていたとか。一九八五年に、その功績を認められ、旭日双光賞を受章している。
 八十二歳で二人目の妻を亡くし、仕事を引退してサンパウロに出た。息子を頼ったが「自分は日本語だけどガイジンの妻がポルトガル語だけで、一日中話さないこともあった。さびしくなってしまった」。
 「妻を捜すため」という理由で憩の園にいったん入園。めでたく再婚を果たし、九十歳のときに〃寿(ことぶき)退園〃した。
 なぜまた再婚を? 「そのときにはあんまり感じてなかったけど、長年経つとよくわかる。そばに喜んでくれる人がいると力になるんだよ。男はバカだからね、世の中の偉い人は、みんな奥さんが偉いからだと思ってるよ」。
 子供が九人、孫が三十三人、曾孫は「二十人くらいまではわかる」。
 日本移民百周年について尋ねると、「百年は長いといえば長い。短いといえば短い」と一息つき、「私はもう喜怒哀楽からは遠ざかってしまったけれど、自分だけが生き残ってきた気がして、申し訳ない。若いときから健康に気をつけなければならないということを言っておきたい」とほのぼのと話した。

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