ホーム | 日系社会ニュース | セッちゃん、神戸で「講演」=初めて「芸」以外で人前に=文協芸能祭に出演依頼されて=「いくらもらえますか?」

セッちゃん、神戸で「講演」=初めて「芸」以外で人前に=文協芸能祭に出演依頼されて=「いくらもらえますか?」

2007年2月3日付け

 「役者冥利って言葉があれば、私はブラジルに行ってそれを覚えたっていうんですよね。そういうものを与えてくれたのがブラジルの日系人なんですよ。だからもう日本に帰らなくていいかなって」――。丹下セツ子さん(66)が、神戸の「御蔵百聞くらぶ」で講演を行った。ブラジルに渡って四十二年。日本にいたころの生活、ブラジルの印象、母親への思い、そして、今とこれから。百人程度が集った神戸の自治会館で、丹下さんはこれまでの人生を振り返り、思いを語った。丹下さんが舞台でなく、講演という形で人前に出たのは今回が初めて。内容を二回に分けてまとめた。
    □  □
――女剣劇の役者、大衆劇場の役者になりたかったのよね。
 丹下さんは女優・タレントとして活躍していた丹下キヨ子の長女として東京で生まれた。中学を卒業してすぐ、十四歳で憧れていた女剣劇の不二洋子に入門する。
――母親は反対だった。せっかくなら宝塚とか国際劇場などに入ったらという思いだったらしい。おばあちゃんも反対。舞踊などしっとりとしたものをやらせたかったみたいね。そのころの私は、ひざまで髪があったし。でも、性格的には剣劇だったの。
 家の中ではわがままに育ったという。劇団での役者修行が始まると::。
――うちは女系家族だったの。お父さんもお兄ちゃんもいなくて、一番はおばあちゃん、次が母で、次にえらいのが私だった。後はお弟子さんと女中さんが何人かいて、だからお風呂に入るのはいつも私が一番だったのね。劇団で最初に風呂に入ったときには「誰の許可を得て最初に入ったんだ。順番が違うだろ」って番頭さんがすごい剣幕でどなるの。厳しかったですよ。
――二世デビューが流行っていた当時で、たった一度だけど日劇の舞台でも踊ったことありますよ。でも、これから日本でやっていくかって時に母が「ブラジルに来ないか」っていうの。
――私は、このころから女剣劇の一座を作りたかったのね。作るには百万円かかるから、一年だけブラジルで母を手伝って、そしたら母が百万円くれるからって。不二洋子を継がないかって話もあったけど断ったわ。
一九六五年に渡伯。
――払うから踊ってとか、座敷ではどうかって、いろんな話をもらったけど「私はそんなところで踊れないわ」。私にも芸人としてのプライドがありましたからね。平日はナイトクラブで働きながら、週末には婦人会に踊りを教えに行ったりしてましたね。
 文協での芸能祭の話。
――舞台に出ることがボランティアだなんて感覚はなかったのよ。これまで職業演劇をしてたので、芸能祭に出てくださいってことになったときには「いくらもらえるんですか?」。文協の会長さんが「お金取るんですか~?」って。ビックリしましたね。
 照明もなかった当時の文協講堂で、特別に照明を用意してもらった。周りからの強い反感も買っていたころだ。
――プロの芸人はブラジルにはいない。日本舞踊のお弟子さんはたくさんいたけど、私から見たらみなさん、素人さんでしょ。もしブラジルにもう少し長くいるなら、自分の思っていること、感じていることをはっきり言わなくてはならないと思いました。
――皆を集めてね、「みなさんはブラジルで苦労している。それは私にはわからないけど、でも今、みなさんは趣味で踊ってますよね。私は子供のころから学校にもいかず、踊り一筋でやってきた。私はプロです。あなたたちに負けるなら、私は明日から踊らない」。 
【御蔵百聞クラブ】神戸市長田区にある、古民家を移築して建てた自治会館を会場に、語り手と同じ目線で話が聞ける小さな講演会。二〇〇五年から開催されている。   (つづく)

image_print