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1年で消えた移住地=南の「ジュスチーナ耕地」――南伯50周年祝典に名がなかった

2007年2月16日付け

 昨年、南伯入植五十周年が祝われた。戦後の移住五十周年であった。この祝典を伝える情報のなかで、一つ欠け落ちていた、五十年前消えた耕地(入植地)があった。「ジュスチーナ耕地」である。
 同耕地出身者の夫婦、吉村隆・慶子さん(七十八歳と六十七歳、ビリチーバ・ミリン在住)が、いま、入植者たちがお互い元気なうちに旧交を温めたい、と希望し行動を起こしている。
 同耕地が、〃存在〃したのは、実は、一年足らずだった。入植を斡旋した海協連(海外移住協会連合会、現在の国際協力機構の一部の前身)が、ダメな移住地だ、と判断したあと、速やかに移住者たちに転住地を世話したからである。
 ジュスチーナ耕地があった所は、現在のリオ・グランデ・ド・スル州サンルイス・ゴンザガ市である。ポルトアレグレの北西方の端、アルゼンチンとの国境に近い。入植者は、十四家族九十七人であった。ほとんど四十歳代の家長、福岡、山口県出身者が多く、広島県、青森県出身が一家族ずつ。
 入植者たちは、さんとす丸で移住、リオ・グランデ港で下船して、一九五七年四月に同地に入り、翌五八年四月頃まで居た。一年後にはほとんどの家族が移転したといわれる。
 吉村さんは、サンパウロ州、パラナ州に移った人もいたが、まだリオ・グランデ・ド・スル州内で暮らしている人たちも多いかもしれない、と推察している。昨年、南伯移住五十周年祭典に関することが日本語新聞に出るたびに「ジュスチーナ」の地名があるか、どうか、注視していたが、最後までみることができなかった。寂しい思いをしたようだ。
 そこで、今回、連絡がとれれば、話し合って〃同耕地出身者親睦会〃でも、と本紙に協力を求めてきた。
 とても営農ができそうもない耕地に十四家族が入植してから、もうすぐ満五十年になる。働き盛りともいえた家長およびその妻たちの生存者は少ないだろうと察しられる。長男、長女たちの現年齢が六十歳代の後半が大半である。
 吉村さんは福岡県出身の佐久本兼助さんの構成家族で渡航してきた。二十八歳であった。妻の慶子さんは青森県出身の工藤不二郎さんの長女で当時十六歳。吉村さんらは、ジュスチーナを出て、パラナ州カルロポリスの伊藤直氏の農場に就労できた。二年ほど働いたという。
 当時の多感な少年少女が集えば、どんな話がはずむだろうか。「会いたい」意向の人は吉村さん(電話11・4692・1170)の次の連絡先に一報を。
Takashi Yoshimura
C.P.83 Biritiba Mirim
Sao Paulo 08940―000
息子セルジオさんのEメールは、
wsssandra@hotmail.com

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