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拓魂=県連・ふるさと巡り=汎ソロの移民史名所を訪ねて=連載《2》=アルバレス・マッシャード=「涙が止まらなかった」=当初は畑の隅に子供を埋葬

2007年5月31日付け

 かつて、ここは奥ソロ一の大植民地だった――。
 聖市から西に五百九十キロ。戦前一九三〇年代の最盛期には一千家族近くを数えたと、同地五十周年史『拓魂』(一九六八年)にはある。と同時に、『ソロカバ邦人発展誌・極光林』(パウリスタ情報社刊、一九六四年)には「オンサ(豹)伏す森辺の植民」として紹介されている。
 アルバレス・マッシャード日伯農村体育文化協会の松本一成会長によれば、現在では全部で約三百家族だという。うち会員となっているのは百五十家族で、町に百家族、田舎に五十家族だという。
 五月十七日昼、日本人墓地での法要のあと、一行は同会館で懇親会をかねて婦人部の手料理をごちそうになった。
 「昨日の昼から準備してましたよ」。婦人部長、松本エミリアさん(68、二世)は、美味しそうに昼食をたべるふるさと巡り一行を見ながら微笑む。婦人部は全部で百三十人ほどもおり、招魂祭の時は総出で準備にあたる。
 エミリアさんは同地の生まれ。祖父は初期入植者の宮下倉吉氏、父は『拓魂』を編纂した宮下良太朗氏とう生粋の同地人だ。この本は日本語を読めない世代向けに、〇五年にポ語に翻訳された。
 懇親会では、今回のふるさと巡り団長、長友契蔵宮崎県人会長が代表して、「日本人墓地で拝み、百年の重みを感じた。幼子がたくさん葬られているとの話を聞き、涙が止まらなかった」と語り、続いて松尾治県連会長の挨拶文を代読。県連からのプレゼントとして『百年の水流―日本外に日本人とその子孫の歴史を創った先人たちの軌跡―』(外山脩著)を渡した。
 勝谷孝ルイス市長は「来年の百周年では、移民史上の歴史的記念物として、日本人墓地が注目されるだろう」とあいさつし、来年に向けて市として独自の取り組みをしていることを明らかにした。人口は二万五千人を数える。市長はその日に墓地で撮った記念写真を、全員にプレゼントして喜ばせた。
 さらに、同地を拠点に布教活動をしていたカトリックの中村ドミンゴス長八神父(一八六五―一九四〇年没)を尊者に登録する運動が進められており、「彼の素晴らしい業績を博物館でぜひ見てほしい」と呼びかけた。
 松本会長が墓地の歴史を初入植時にまでたどって歴史を説明した。「九十年前この辺りは原始林で、もよりの駅から五十キロも荷物を担いできたが、自分の土地がどこかも分からない有様だった」。
 当時の墓地は十四キロも離れたヴェアード(今のプルデンテ)にしかなく、七、八人が交代で棺桶をかついで持っていった。「開拓初期は畑の隅に子供を埋めたという話もある」。一九一九年、ある時立て続けに四人が亡くなり、それを見かねた小笠原尚衛が役所に特別に許可をもらって植民地内に墓地を作った。
 以来、四三年に禁止されるまでに七百八十四人が埋葬され、「三歳までの幼児が三百五十人を数える」と説明した。「墓場には六十歳以上はわずかしかいない」。現在は若者の多くがデカセギに行ったという。「三十~五十代に働き盛りが少ない。会の将来が心配です」と語った。
 例年八百人近く集まるという招魂祭は今年八十七回目、七月八日に予定している。「戦争中は日本人が集まれなかったので空白があったが、それ以外は毎年開催されている伝統の行事、ぜひみなさん来てください」と呼びかけた。回数から言ってもコロニア最古の行事の一つだ。
 三千キロ離れたアマゾン河口の町、パラー州ベレンから参加した竹下道子さん(80、二世)は、「日本人墓地を見て苦労された様子がよく分かり、来てよかった」としみじみ感想を語った。五年前までは聖市在住だったが、現在は息子の住むベレンに。アラサツーバ近郊のアグア・リンパに生まれて十歳まで過ごした。「あそこが一番懐かしいです」。
 午後三時前、同地の婦人部も加わって「ふるさと」を合唱し、全員が全員に握手をするブラジル式のお別れをし、プレジデンテ・プルデンテに向かった。
(深沢正雪記者、つづく)

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